史跡写真

石塚城跡~石塚姓発祥の地  場所:宮崎県宮崎市浮田2920  石塚姓発祥の地。鎌倉時代に藤原南家の流れを汲む伊豆の豪族伊東祐時の七男祐景が日向に下向(1252年受領)した。祐景から数えて6代目(庶流)の伊東祐武が石塚城を築城(1401年)し、初めて「石塚」を名乗った。  他にも日向伊東氏7代(伊東氏12代)当主の三男に伊東祐武がいる。同姓同名であるが年代が異なる。

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 石塚城跡(宮崎市立生目小学校)

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 小学校の裏山(城跡)


妙円寺跡石塔群  場所:宮崎市大字浮田439、440(千仏山本勝寺境内)  伊東祐武(通称 石塚肥後守孫次郎)の墓がある。  妙円寺跡石塔群は、昭和11(1936)年発掘された。板碑・五輪塔合わせて1237基を数える。室町時代を中心に江戸時代までの石塔群が一箇所に集中して存在している。その中には、門川流の名前も多く刻まれている。廃仏毀釈で廃寺になり、現在は千仏山本勝寺(法華宗)となっている。  宮崎県指定有形文化財

参考:妙円寺跡石塔群
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 石塔の保存状況

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 伊東(石塚)祐武の墓


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 妙円寺住職日仁上人(祐種 祐武五男)

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 妙円寺住職日編上人(石塚祐延)①


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 妙円寺住職日編上人(石塚祐延)②

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 妙円寺住職日編上人(石塚祐延)③


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 妙円寺住職日住上人(石塚祐典)

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 妙円寺住職日隠上人(石塚祐■)


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 工藤(伊東)祐経からの略系図

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 石塔群の説明 宮崎市教育委員会


木崎原古戦場  場所:宮崎県えびの市池島  伊東氏本家は島津との最終決戦木崎原の戦い(1572年)で大敗し、日向を離れた。残された家臣は日向が島津家の領地となり、島津に仕えたものが多かったのであろう。日向を逃れた伊東本家は豊臣秀吉の九州平定の功により飫肥藩を与えられた。徳川の世になってもそのままの待遇で、明治になるまで続いた。  大軍(3000人という説が有力)を擁していた伊東側が少数の兵力(300人程度)しか持っていなかった島津側に敗北を喫した。

参考:木崎原の戦い(Wikipedia)
参考:伊集院久信(Wikipedia)
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地図

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 案内板


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 記念碑

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 島津義弘公歌碑  「いそぐなよまた急ぐなよ   世の中の定まる風の吹かぬかぎりは」


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 首塚  主だった武将の首は伊東家に届け、他はここで弔った。

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 太刀洗川  島津兵が刀を洗ったと伝わる小川


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元巣げんそう塚  木崎原古戦場の霊を弔い飯野地頭「伊集院肥前人這元巣一雄」が建立した。  「伊集院久信」とも呼ばれた島津氏の家臣で法号は元巣。

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 元巣塚案内板


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 古戦場から見たループ橋

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 古戦場から見た栗野岳


薩摩街道大口筋  場所:鹿児島県姶良市285 白銀坂  大口筋は鹿児島→白銀坂→蒲生→伊牟田→鶴田→曽木→羽月→大口→山野【小川内関】

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 島津ゴルフ場内の牟礼岡入口

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薩摩街道出水筋  場所:国道三号線 川内~阿久根の海岸 1.出水筋  出水筋は鹿児島→伊集院→串木野→平佐→高城→阿久根→出水【野間関】  出水郷は北の守りの重要地点で薩摩藩最大の外城(出水城)であった。

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2.野間の関

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 野間の関跡

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 野間の関跡の標識


箱崎八幡神社  場所:鹿児島県出水市上知識町46  黒船来航時の江戸の警備に上京した郷士が、無事に帰ったことのお礼に奉納した石塔がある。(1854年正月~1855年9月)

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 入口の両端に石塔がある。鶴はいかがなものかと…

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 社殿


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 入口左側の石塔

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石塚佳兵衛の名がある。


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 安政二年九月吉日


田原坂  場所:熊本県熊本市北区植木町豊岡 字舟底858-1ほか 1.崇烈碑  田原坂は西南戦争(1877年)最大の激戦地。官軍約1,700人(官軍死者数の26%)、薩軍1,100人(薩軍死者数の16%)が戦死。士族中心の薩摩軍が近代的な装備の平民中心の政府軍に敗れたことは武士の時代の終焉を意味している。  この碑は政府軍指揮官栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王が建立されたものである。  「薩軍が南関を破り北方に進出すれば、政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったであろう。そのような状態に至らなったのは田原坂の勝利による。  多くの死者をだしたが、死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。  そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。」といった主旨で建立された。

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 田原坂 崇烈碑

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 田原坂 崇烈碑 案内板

崇烈碑すうれつひ  鹿児島県は西海さいかいに於いて地最も広く、人最も勇なり。しこうして西郷隆盛名望めいぼう世をおおふ。海内かいだい人士じんし其の進退を候し、以て安危あんきと為すに至る。  明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒しんど、兵を発して之れを討つ。熾仁たるひと総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道をやくし、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉このはを抜く。賊退いて田原坂の険にる。しこうして熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。れ田原の地たる両崖りょうがい壁立経路崎嶇きくたり。賊ことごとくく精鋭にして堅塁けんるいを築き、咆哮出没虎狼ころうの如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦おうせん前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。いやしくもこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。しこうして其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷に由る。嗚呼ああ死者の功大なり。而していずくんぞ見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上に建て、似って之れを記す。けだ忠烈ちゅうれつ勧奨かんしょうする所以ゆえんなり。

明治十三年十月
陸軍大将二品にほん大勲位 熾仁たるひと親王 撰文ならびに篆額てんがく
※ 二品:一品から四品まである親王の位階
  熾仁親王:栖川宮ありすがわのみや熾仁親王
  篆額てんがく:石碑上部の篆書(秦代の標準書体)の題字
  撰文せんぶん:文章を作ること。

2.谷村計介戦死之碑

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 西南の役 谷村計介 戦死之碑  谷村計介は熊本城内の守城軍として活躍、密使として征伐軍本営との連絡にあたり、使命を果たしたのち再び第一線に参加,25歳で戦死する。

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 谷村計介 戦死之碑 案内板


3.田原坂

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 田原坂 三の坂

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 田原坂 三の坂


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 田原坂 三の坂

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 頂上の田原坂公園


4.美少年像

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 田原坂公園 美少年像

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 田原坂公園 民謡「田原坂」歌詞  「人馬」と「陣羽」の二つがあるので「じんば」と書いてある。


雨は降る降る 陣羽は濡れる 越すに越されぬ 田原坂 右手に血刀 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年 山に屍 川に血流る 肥薩の天地 秋にさびし 草を褥に 夢やいずこ 明けのみ空に 日の御旗 泣いてくれるな かわいの駒よ 今宵しのぶは 恋でなし どうせ死ぬなら 桜の下よ 死なば屍に 花が散る 田原坂なら むかしが恋し 男同士の 夢の跡 春は桜よ 秋ならもみじ 夢も田原の 草枕


5.弾痕の家

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 田原坂公園 「弾痕の家」

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 田原坂公園 「弾痕の家」の内部。日本赤十字発祥の地の資料展示



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博愛社設立を許可した「有栖川宮熾仁親王」解説

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博愛社設立を直訴した「佐野常民」


6.戦争資料館

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 田原坂西南戦争資料館

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 田原坂西南戦争資料館


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 田原坂西南戦争資料館 砲弾

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 田原坂西南戦争資料館 官軍の銃弾と薬莢


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 田原坂西南戦争資料館 薩軍の銃弾と薬莢


7.薩摩塚

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田原坂公園 薩摩塚

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田原坂公園 薩摩塚案内板


8.戦死者名簿

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田原坂公園 薩軍戦死者名簿 鹿児島市ほか

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田原坂公園 薩軍戦死者名簿 出水郡出水ほか


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田原坂公園 薩軍戦死者名簿 出水郡出水ほか②

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田原坂公園 薩軍戦死者名簿 鹿児島郡ほか


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田原坂公園 薩軍戦死者名簿 伊佐郡ほか


9.JR田原坂駅

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JR田原坂駅 案内板 駅の周りは何もない。人家はおろか自動販売機一つない。携帯でタクシーを呼ぶ以外ない。


出水愛宕山  場所:鹿児島県出水市上鯖淵5279  愛宕信仰は、京都市の愛宕山山頂の愛宕神社が発祥した火防の神に対する神道の信仰。日本全国に約1000社ある。祭神は多くの場合、カグツチノミコトやイザナミノミコトである。(出典Wikipedia)

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愛宕山山頂。現在山頂まで車で行ける。

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昭和10年に愛宕山山頂から少し下まで道路完成。記念碑の書は石塚実人


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昭和10年の記念碑側面

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出水麓から東出水方面を見る。九州新幹線が通っている。


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出水麓から東出水方面を見る②

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