Ⅰ-1 写真 01(飛鳥 奈良 平安時代)[藤原]
写真01記載内容
①石塚代々預戴焉 石塚代々焉を頂戴ス 注 後から追加記入されたと考える。石塚弥市右エ門祐類17ではないか ②工藤氏継圖 注 武家としては工藤氏が祖である。 工藤姓はこの系図では為憲02から維職02まで ③鎌足01(かまたり) 出 史 [父:中臣御食子 669年没] ∴一品 此下本書紙朽切字無シ 此上紙破損字無シ 鎌足大連公息 号大職冠 内大臣 天智天王御宇内大臣 始給藤原姓ヲ 本ト大中臣是也 注 改名 中臣鎌子→中臣鎌足→藤原鎌足 筆写のとき字が消えていたとある。 史実より鎌足と比定 大職冠:冠位の最上位 御宇:天下を治めている期間 ④不比等01(ふひと) 飛~奈 出 史 [父:中臣鎌足 次男 659生~720年没] 左大臣 賜太政大臣 注 藤原不比等 ⑤淡海公(たんかいこう) 史 従一位 注 藤原不比等に贈られた称号。天平宝字4(760)年
⑥武智麻呂01(むちまろ) 飛~奈 出 史 [父:不比等01 長男] 左大臣正二位 太政大臣 注 680年生~737年没 藤原南家の祖 ⑦乙麻呂01(おとまろ) 出 史 [父:武智麻呂01 三男] 従三位 此下朽切テ字無シ 参議 此下朽切テ字無シ 注 系図は判読不能、史実より乙麻呂と比定 参議は官職の一つで宮中の政に参議する ⑧是公01(これきみ) 出 史 [父:乙麻呂01 長男] 従一位太政大臣石黒丸 此字ノ上本書紙朽切テ字無シ 注 是公の幼名は黒丸 系図は判読不能、史実より是公と比定 ⑨雄友01(おとも) 出 史 [父:是公01 次男] 大納言 注 史実では雄友、系図では雄安。筆写ミスと判断
参考 日向伊東氏初代祐時03の子で日向に下向した七男門川祐景05から数えて6代目の祐武B12が初めて「石塚」を名乗った。「石塚代々預戴焉」はここが起点となる。祐景05以前の系図は簡単に当主のみ記載してある。
平安時代年表 794年 桓武天皇が平安京(現京都市)に遷都 平安京は、794年~1869年まで日本の首都 858年 藤原良房が初の摂政 摂関政治の開始 880年 藤原基経が初の関白となる 1068年 後三条天皇が即位し、摂関時代が終わる 1086年 白河天皇が上皇となり院政を開始する 1108年 源義親の乱 平正盛が源義親を追討 1159年 平治の乱 1167年 平清盛が太政大臣となる 1185年 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡 朝廷が源頼朝に守護・地頭の設置の許可 鎌倉幕府の成立 1190年 源頼朝上洛(伊豆に流されていた) 権大納言・右近衛大将となる 1192年 後白河法皇が崩御 源頼朝が征夷大将軍となる(鎌倉幕府成立)
参考 藤原南家 藤原南家とは、奈良時代の藤原不比等01の長男である藤原武智麻呂01に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂01の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲02流藤原南家の工藤氏・伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家の名族を数多く輩出した。 是公01は木瓜紋(左図)であったとの記録がある。平安初期は庵木瓜(図右)紋ではなかったと推測する。 参考:▶藤原南家(Wikipedia) (p001)
Ⅰ-2 写真 02(平安時代)[藤原 工藤]
写真02記載内容
①弟河02(おとかわ) 出 史 注 系図では弟政。 筆写ミスか [父:雄友01] 従五下 越後守 ②高扶02(たかすけ) 出 史 [父:弟河02] 陸奥守 注 陸奥守は従五位上 ③清夏02(きよか) 平 出 史 注 [父:高扶02 次男] 従五下 母国守■ 此下字有損不詳 上総介 注 系図では「夏」の字は読みにくいが史実に従った。 上総介は正六位下 ④維畿02(これちか) 出 史 [父:清夏02] ■岐守 此上破損字有 注 讃岐守 従五位下 ⑤為憲02(ためのり) 出 史 [父:維畿02] 依杢助任工藤姓 母ハ高望王ノ女 伊豆 駿河 甲斐 遠江ノ守護也
⑥時理02(ときさと) 出 史 [父:為憲02] 遠江守 ⑦時信02 [父:時理02] 駿河權之守 ⑧維永02 [父:時理02] 従五下 注 史実では維景02の弟 ⑨維景02(これかげ) 出 史 [父:時理02] 駿河守 紙朽切テ名計見エタリ 名乗(実名のこと)ハ紙朽切テ一字モ不レ見エ 注 系図は読み取れず(空白)。史実より維景と比定 ⑩維職02(これもと) 出 史 [父:維景02(系図と異なる。こちらが史実)] 伊豆工藤伊豆国押領也 注 押領(使)は兵卒を監督、統率する役職。 注 「伊東」の起源は、伊豆半島の東側の荘園を意味す る。初めて「伊東」を号した。 ⑪家継02(祐隆A02)(いえつぐ) 出 史 [父:維職02 法名 寂心] 工藤大夫 窮荘ノ地頭 茲ニ小書アリ紙切テ字無シ 注 窮荘は葛見荘(久須見荘)と推察する。ここを拠点と していた。工藤祐隆A02とも呼ばれる。 伊東荘と河津荘を合わせて久須見(美)荘 ⑫祐家A02(すけいえ) 史 [父:家継02] 狩野四朗太夫 注 史実では家継02が狩野四郎太夫
→⑥時理02 | →⑦時信02 | →(二階堂氏の祖) |
→⑨維景02 | →⑩維職→ | |
→⑧維永02 |
Ⅰ-3 比較資料 武智麻呂01~祐時03系図
出典:▶家系城郭研究所 交代寄合とは何か 第1章 伊東家 (p005) |
注 乙麻呂01は系図では判読不可。武智麻呂01の三男。(※1) 是公01は系図で判読不可。(※2) 雄友01は系図では雄安となっている。(※3) 弟河02は系図では弟政となっている。(※4) 維継*は系図に記載がない。(※5) 系図との漢字の不一致部分は筆写時に原本の紙劣化と考える。 参考 藤原為憲02は、木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任し、藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興す。家紋「庵木瓜」の創始者。伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守(国司の長官)を歴任。 両親:藤原維畿02、高望王(平高望)の娘
引用:▶藤原為憲(Wikipedia) (p003) |