飛鳥時代~奈良時代~平安時代

Ⅰ-1 写真 01(飛鳥 奈良 平安時代)[藤原]

写真表示 写真01 2022/07/18撮影

写真01記載内容

石塚代々預戴焉  石塚代々これを頂戴ス  後から追加記入されたと考える。石塚弥市右エ門祐類17ではないか ②工藤氏継圖  武家としては工藤氏が祖である。  工藤姓はこの系図では為憲02から維職02まで ③鎌足01(かまたり)   [父:中臣御食子 669年没]  ∴一品 此下本書紙朽切字無  此上紙破損字無  鎌足大連公息 号大職冠 内大臣  天智天王御宇内大臣 始給藤原姓  本大中臣是也  改名 中臣鎌子→中臣鎌足→藤原鎌足   筆写のとき字が消えていたとある。   史実より鎌足と比定   大職冠:冠位の最上位   御宇:天下を治めている期間 ④不比等01(ふひと) 飛~奈  [父:中臣鎌足 次男 659生~720年没]  左大臣 賜太政大臣  藤原不比等 ⑤淡海公(たんかいこう)    従一位  藤原不比等に贈られた称号。天平宝字4(760)年

武智麻呂01(むちまろ) 飛~奈  [父:不比等01 長男]  左大臣正二位 太政大臣  680年生~737年没 藤原南家の祖 ⑦乙麻呂01(おとまろ)   [父:武智麻呂01 三男]  従三位 此下朽切テ字無  参議 此下朽切テ字無  系図は判読不能、史実より乙麻呂と比定   参議は官職の一つで宮中の政に参議する ⑧是公01(これきみ)   [父:乙麻呂01 長男]  従一位太政大臣石黒丸  此字上本書紙朽切字無  是公の幼名は黒丸   系図は判読不能、史実より是公と比定 ⑨雄友01(おとも)   [父:是公01 次男]  大納言  史実では雄友、系図では雄安。筆写ミスと判断

参考 日向伊東氏初代祐時03の子で日向に下向した七男門川祐景05から数えて6代目の祐武B12が初めて「石塚」を名乗った。「石塚代々預戴焉」はここが起点となる。祐景05以前の系図は簡単に当主のみ記載してある。

    平安時代年表  794年 桓武天皇が平安京(現京都市)に遷都     平安京は、794年~1869年まで日本の首都  858年 藤原良房が初の摂政     摂関政治の開始  880年 藤原基経が初の関白となる 1068年 後三条天皇が即位し、摂関時代が終わる 1086年 白河天皇が上皇となり院政を開始する 1108年 源義親の乱 平正盛が源義親を追討 1159年 平治の乱 1167年 平清盛が太政大臣となる 1185年 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡     朝廷が源頼朝に守護・地頭の設置の許可     鎌倉幕府の成立 1190年 源頼朝上洛(伊豆に流されていた)     権大納言・右近衛大将となる 1192年 後白河法皇が崩御     源頼朝が征夷大将軍となる(鎌倉幕府成立)


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参考 藤原南家  藤原南家とは、奈良時代の藤原不比等01の長男である藤原武智麻呂01に始まる藤原氏の一流。「南家」の称は、武智麻呂01の邸宅が弟房前の邸宅に対し南に位置したことに由来する。子孫は、朝廷内では房前を祖とする藤原北家に押されて振るわなかったが、為憲02流藤原南家の工藤氏・伊東氏・二階堂氏・相良氏など武家の名族を数多く輩出した。  是公01木瓜紋もっこう(左図)であったとの記録がある。平安初期は庵木瓜(図いおりもっこう右)紋ではなかったと推測する。 参考:藤原南家(Wikipedia) (p001)

Ⅰ-2 写真 02(平安時代)[藤原 工藤]

写真表示 写真02 2022/07/18撮影
 写真の線は史実に合わせて緑色の線で訂正した。

写真02記載内容

弟河02(おとかわ)  系図では弟政。  筆写ミスか  [父:雄友01]  従五下 越後守 ②高扶02(たかすけ)   [父:弟河02]  陸奥守  陸奥守は従五位上 ③清夏02(きよか)   [父:高扶02 次男]  従五下 母国守■ 此下字有損不詳 上総介  系図では「夏」の字は読みにくいが史実に従った。  上総介は正六位下 ④維畿02(これちか)   [父:清夏02]  ■岐守 此上破損字有  讃岐守 従五位下 ⑤為憲02(ためのり)   [父:維畿02]  依杢助任工藤姓 母高望王女  伊豆 駿河 甲斐 遠江ノ守護也

時理02(ときさと)   [父:為憲02] 遠江守 ⑦時信02  [父:時理02] 駿河權之守 ⑧維永02  [父:時理02] 従五下  史実では維景02の弟 ⑨維景02(これかげ)   [父:時理02] 駿河守 紙朽切テ名計見エタリ  名乗(実名のこと)紙朽切一字  系図は読み取れず(空白)。史実より維景と比定 ⑩維職02(これもと)   [父:維景02(系図と異なる。こちらが史実)]  伊豆工藤伊豆国押領也  押領(使)は兵卒を監督、統率する役職。  「伊東」の起源は、伊豆半島の東側の荘園を意味す  る。初めて「伊東」を号した。 ⑪家継02(祐隆A02)(いえつぐ)   [父:維職02 法名 寂心]  工藤大夫 窮荘地頭 ここニ小書アリ紙切テ字無シ  窮荘は葛見荘(久須見荘)と推察する。ここを拠点と  していた。工藤祐隆A02とも呼ばれる。  伊東荘と河津荘を合わせて久須見(美)荘 ⑫祐家A02(すけいえ)   [父:家継02]  狩野四朗太夫  史実では家継02が狩野四太夫

 写真に緑色の線で示すように、
→⑥時理02→⑦時信02→(二階堂氏の祖)
→⑨維景02→⑩維職
→⑧維永02
となるのが一般的な史実である。  一説には時信02時理02の弟とされる。 参考:工藤貞行 (p002)

Ⅰ-3 比較資料 武智麻呂01~祐時03系図

 系図と史実との比較のための資料である。系図に記載されているのは直系()のみで兄弟などの記載はない。
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写真表示 維継(系図記載無し)以外系図と史実は一致
出典:家系城郭研究所 交代寄合とは何か 第1章 伊東家 (p005)

乙麻呂01は系図では判読不可。武智麻呂01の三男。(※1)   是公01は系図で判読不可。(※2)   雄友01は系図では雄安となっている。(※3)   弟河02は系図では弟政となっている。(※4)   維継*は系図に記載がない。(※5)  系図との漢字の不一致部分は筆写時に原本の紙劣化と考える。 参考 藤原為憲02は、木工助(宮内省の宮殿造営職である木工寮の次官)に就任し、藤原の藤と木工の工を合わせ工藤姓を興す。家紋「庵木瓜」の創始者。伊豆国・駿河国・甲斐国・遠江国の権守ごんのかみ(国司の長官)を歴任。  両親:藤原維畿02高望王たかもち(平高望)の娘

引用:藤原為憲(Wikipedia) (p003)

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