Ⅱ-1 写真 03(鎌倉時代)[工藤 伊東]
写真03記載内容
①祐継A03(すけつぐ) 平 出 史 [父:工藤家継02] 伊東次郎 武者所 法名 蓮用 七月十三日 四十三卒 注 天永3(1112)年生~久寿2(1155)年没(43歳) ②祐経03(すけつね) 出 史 [父:工藤祐継A03] 工藤次一﨟 左衛門尉(六位相当) 童名金石丸 四十二卒 法名 寂照 祐経十五ニテ大宮ニテ元服ス 一﨟ヲ歴テ号工藤ト 一﨟其後 兵衛佐頼朝参内之時君宜旨ニ 家侍十人撰テ進メヨ 直ニ名可被下其外元佐殿可為計由即佛下 其時十人之内ニ撰■号ス二左衛門尉ト一 家之名誉不可■之也 注 歴テ=経て、撰テ=選びて 﨟:任官叙位の順番によって一~三﨟と区別 兵衛佐:兵衛佐は律令制の役職。従五位上相当 注 妻:伊東祐親娘(万劫御前) 後妻:千葉介常胤娘(冷泉御局)
注 久安3年(1147年)または久寿元年(1154)生 注 建久4年(1193)5月28日没(曾我兄弟に討たれる) ③祐時03(すけとき) 鎌 出 史[日向伊東氏初代] [父:工藤祐経03 母:千葉介常胤娘(冷泉御局)] 幼名:犬房丸 文治元年(1185)生 建長4年(1252)6月17日没 68歳 大和守三郎 法名 慈光 母は千葉圦常胤ノ女 右大将頼朝御烏喟子也 御子男女十八人 注 千葉介常胤 118年生~1201年没 注 喟子:喟は「嘆き」の意。読みはキ 参考 父を討った五郎時致03(時宗A03)は助命の動きも あったが、犬房丸(祐時03)が泣いて訴えた事により、 身柄は祐経03の一族に引き渡されて処刑された。 1198年に源頼朝から日向国に地頭職を与えられる。 ④祐親03(すけちか) 平 史 [父:祐家A02] 祐継之為テ子トレ改ム二伊東次郎入道寂式三資宗ト一 (祐継A03の子と為て伊東次郎入道寂式三資宗と改 め) 河津次郎 注 河津二郎か。1182没 ⑤祐通03(祐泰03)(すけみち)(すけやす) 史 [父:祐親03] 河津三郎 注 祐泰が一般的 ⑥祐成A03(すけなり) 平~鎌 史 [父:祐通03] 曽我十郎 二十二死(曽我兄弟) ⑦時宗03A(時致03)(ときむね) 平~鎌 史 注 1172年生~1193年没 [父:祐通03] 北条五郎 二十死(曽我兄弟) 注 時致とも呼ばれる。
Ⅱ-2 参考資料 曽我事件 伊東氏とその庶流門川氏、石塚氏は曽我兄弟に打たれた工藤祐経03の子孫である。
1.源頼朝 源氏と平氏が敵対した「平治の乱」(1159年)で敗れた頼朝の父義朝は殺害されたが、若年の頼朝は伊豆に流罪となった。 伊東祐親03は平清盛の信頼を受け、伊豆に流罪となった頼朝の監視を任される。 頼朝は伊豆で以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨(皇太子の命令を伝える文書)を受け北条時政(北条氏執権初代)、北条義時(北条氏執権2代)などの坂東(現在の関東)武士らと1180年平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。 祐親03は追われる身となり、「富士川の戦い」(1180年)の後捕らえられ、一時は一命を赦されたが、祐親03はこれを潔しとせず1182年自害する。 祐親03の次男河津祐清E*の子河津祐光B*は源頼朝から伊豆国河津荘を与えられた。その後、長時*のときに尾張へ移り、その孫長久*は織田信長・豊臣秀吉に仕えた。その子長実*は備中岡田藩主となり、幕末まで続いた。 1184年末弟源義経は奇襲で有名な「一ノ谷の戦い」(兵庫県神戸市)、1185年の「壇ノ浦戦い」(山口県下関市)に勝利し平家を滅ぼす。 頼朝は、戦功のあった義経を許可なく官位を受けたことなどの理由(諸説有り)で追放した後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、1189年「奥州合戦」で奥州藤原氏を滅ぼす。そののち1192年に征夷大将軍に任じられた。 祐経03による祐親03・祐泰03父子襲撃は、遺恨を抱く頼朝による教唆があり、後に祐経03が頼朝に重用された一因であるとする説(保立道久 東京大学史料編纂所名誉教授)がある。 注「平治の乱」は、天皇と上皇による院政の実権をめぐる争い。1156年の「保元の乱」の後、後白河上皇の近臣の藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝が敵対し争い、平氏が勝利した。 注「富士川の戦い」は源頼朝の軍と、平維盛らの軍が、富士川(静岡県富士市)を挟んで行った合戦。 注 平安時代末期の1180年から1185年にかけての6年間にわたる一連の各地の内乱は、平氏政権(平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流)に対する反乱で、「治承・寿永の乱」呼ばれる。
2.工藤祐経 1147年または1154年生、1193年5月28日没、祐泰03を殺害し、曾我兄弟に討たれる。 祐経03は祐継A03の後を継いだが、家継02(祐隆A02)の後妻の連れ子(娘)の子で養子と言われている。しかし、密通していたので実子との説あり。ほかにも祐経03は祐家A02の二男との説もある。祐経03の後見人であった叔父の祐親03は自分が、祖父家継02の直系と思っていたので伊東荘を奪い争いになった。
参考:▶工藤祐経(Wikipedia) (p004) |
3.祐通(祐泰 河津三郎)の誤射
伊東荘をめぐる祐経03と祐親03の従兄弟同志の宗家争いの時、祐経03の放った矢で祐親03ではなくその子の河津三郎祐泰03(祐通03)が殺された(誤射)。 祐泰03の長子は女子、長男は祐成A03(幼名一萬丸)、次男は時宗A03(筥王丸)。長男は曽我祐信に養育され、次男は北条時政(北条氏執権初代)が烏帽子親となって元服。長男は曽我十郎祐成A03、次男は北条五郎時致03と名のった。 曽我兄弟は1193年祐経03を討ち、その後祐経03の子祐時03らにより処刑された。 参考:▶「曽我事件」の真相 (p006)
考察 伊東荘をめぐる争いの時祐親03は祐経03に嫁いだ娘(万劫)を取り上げて土肥遠平に嫁がせた。その後祐経03は千葉介常胤の娘で冷泉御局を娶った。これが祐時03の母である。祐時03の子とされる門川祐景05と稲用祐忠A05の母は千葉氏とされるが、祐経03の子の可能性もあるのではないか。 また、土肥遠平と万劫の間にできた娘は祐時03の妻となり、祐朝A04、祐盛A04、祐綱04の三人の男子の母となっている。 注 烏帽子親とは武家の男子が元服の際、親に代わって烏帽子をかぶらせ、烏帽子名を付ける人。擬制的親子関係を結ぶことになる。
4.「曽我どんの傘焼き」~薩の郷中教育
鹿児島市で行われる「曽我どんの傘焼き」は曽我兄弟の孝心をしのび「郷中教育」の一環として始まった。 曽我兄弟が成人し、父の仇討ちを成し遂げた時はすでに17年の歳月が流れていた。長きにわたり親の事を忘れず、ついに仇を討ったことが、親への孝を教える教材として用いられた。 兄弟は源頼朝に随行して富士の裾野で巻き狩りをしていた工藤祐経03を討ち取り永年の大願を成就した。 その時、雨の降る中、傘を松明かわりにして陣屋を進んだという故事にちなんだ鹿児島市の行事である。毎年7月に、鹿児島市内を流れる甲突川河岸で開催されている。 注 巻き狩りは山に猟犬を放して獲物を追い出し、持ち場についている人がこれを撃つ方法。
5.郷中教育 郷中教育とは、薩摩藩に見られた独特の社会教育の機会。同じ地域に住む武士の子どもたちが、ともに心身の鍛錬と学習に励み、地域の年長者が目下の者を指導する仕組みだった。 郷中を構成するのは6歳から24、25歳までの男子で、年齢によって小稚児(7~10歳)、長稚児(11~14、15歳)、二才(長稚児の上)と区分されていた。二才は24、25歳になると長老と呼ばれ、郷中を離れ、結婚したり役職についたりした。 注 ふりがなは鹿児島の方言
引用:▶郷中教育 (p007) |
Ⅱ-3 写真04(鎌倉時代) [伊東 早川 稲用 田島 長倉]
写真04記載内容
①祐朝A04(すけとも) 史 [父:祐時03 長男] 茲ニ小書有朽損字不見エ 伊東嫡子 土肥腹(土肥遠平女) 注 早川氏祖 長門国(山口県)三隅領主・安芸国(広島県)奴田荘奥 州鞭指庄(宮城県)松山領主 注 土肥遠平は鎌倉幕府の御家人。早川荘を治め、小 早川姓を名乗った。戦国時代の小早川秀秋の祖先。 ②祐綱04(すけつな) 史 [父:祐時03 三男] 三朗左衛門尉(六位相当) 右(上)同腹(土肥遠平女) 注 三石氏祖 備前国三石領主 ③女子 史 [父:祐時03] ④祐盛A04(すけもり) 鎌 史 [父:祐時03 次男] 石見國守護 祐時03存命之時ニ讓子也 次男号ス二稲持ト一 注 稲用氏祖 石見國は島根県浜田市 注 稲用は「いなもち」と「いなよう」の読みがある。 ⑤祐明A04(すけあきら) 史 [父:祐時03 四男] 田島七朗左衛門尉 祐時03存命の時取領等相続シ畢 此ノ字ノ片紙朽切テ不レ詳ス 注 史実より「明」と判断。田島荘地頭、田島氏祖 系図では三男 祐盛A04は石見國を相続、日向の地は祐明A04に譲る。 ⑥女子 史 [父:祐時03]
⑦祐氏A04(すけうじ) 史 [父:祐時03 五男] 播磨吉田長倉 五番(五男) 兵衛尉 注 長倉氏祖 播磨国長倉荘吉田領主 播磨国は兵庫県姫路市 ⑧祐藤A04 [父:祐朝A04] ⑨祐久A04 [父:祐綱04] ⑩盛時04 [父:祐盛A04] ⑪祐重A04 [父:祐明A04] ⑫祐孝A04 [父:祐重A04] ⑬祐隆B04 [父:祐氏A04]
鎌倉時代年表 1185年 壇ノ浦の戦いで平家が滅亡 朝廷が源頼朝に守護・地頭の設置の許可 1192年 源頼朝、征夷大将軍任命 1193年 曾我兄弟の仇討ち 1198年 祐時03日向国地頭 1199年 源頼朝の死 源頼家が家督を継ぐ 1200年 十三人の合議制開始 1201年 建仁の乱 1203年 源頼家が幽閉され源実朝が将軍に就任 1204年 三日平氏の乱 源頼家暗殺 1205年 畠山重忠の乱 牧氏事件 1213年 泉親衡の乱 和田合戦 1219年 源実朝が公暁に暗殺される 1221年 承久の乱(後鳥羽上皇) 六波羅探題の設置 1224年 伊賀氏の変 連署の設置 1225年 評定衆の設置 1226年 九条頼経が将軍就任 以降北条氏の傀儡政権 1232年 御成敗式目の制定 1246年 宮騒動 1247年 宝治合戦 1249年 引付衆の設置 1252年 将軍九条頼嗣を京へ送還 宗尊親王が将軍就任 宮将軍の開始 1272年 二月騒動(北条氏の内乱) 1274年 文永の役(元寇) 1281年 弘安の役(元寇) 1285年 霜月騒動 1293年 鎌倉大地震 平禅門の乱(平頼綱の討伐) 1305年 嘉元の乱(北条宗方の乱) 1317年 文保の和談 1324年 正中の変(後醍醐天皇の討幕計画) 1331年 元弘の乱(後醍醐天皇の討幕計画) 1333年 足利尊氏が六波羅探題を滅ぼす 新田義貞が鎌倉を攻略。幕府滅亡
参考 島根県大田市 稲用城山遺跡の石碑より 「鎌倉時代、伊東祐盛A04公この城山を居城として、稻用郷三百町歩を所領、姓氏を稻用と改め数代八十有余年の間統治す。後日向国に移るも代代稻用を姓とし、今にその子孫は日南市にあり。」
Ⅱ-4 比較資料 祐朝A04~祐國A07系図 5~6ページと同様で、系図と史実との比較のための資料である。ここからは日向への下向が始まっている。●は日向伊東氏当主を表す。 伊東祐持07の叔父の子の伊東祐熈*が家督を継いで日向に向かったが、その途中の周防(山口県東部)で遭難死した。これを7代目とする説を採用した。
出典:▶家系城郭研究所 交代寄合とは何か 第1章 伊東家 (p005) |
考察 本家に伝わる系図は、中臣鎌足01から伊東祐時03までは当主のみの記載である。祐時03の子の祐景05からは詳しく書かれている。ただし日向伊東本家については本家の祐堯07が日向に下向するまでは当主のみの記載である。遡って祖先を示すために簡単に当主のみ書き加えられたと考える。 祐景05の子孫が祐堯07に従うようになってから日向伊東本家も詳しく書かれている。主従関係になったのであろう。
Ⅱ-5 参考資料 日向国地頭 伊東祐時
1.祐時の子の全国展開 伊東祐時03(日向伊東氏祖 1185年生~1252年没)は源頼朝から1198年日向国地頭を命ぜられたが、日向に住んでいたわけではなく鎌倉に居た。先に子の祐明A04、祐景05が下向した。伊東本家の祐持07が足利尊氏の命で下向したのは1335年で、祐時03の子が下向した1252年から83年後になる。
参考:伊豆国の伊東氏と日向入国(末永和孝氏)(p082) |
祐朝A04 |
長男(系図 嫡子) 早川氏祖 奥州鞭指庄(宮城県仙台市)領主 長門国三隅(山口県大津郡三隅町) 安芸国奴田(沼田)荘(広島県旧沼田郡) 生前贈与 鎌倉在住 母:土肥遠平娘(娘の母は万劫 遠平正室) 注 鞭指庄は宮城県仙台市国分鞭館と推定される 祐時03の弟祐長は安積郡(福島県)を受領 |
祐盛A04 |
次男 稲用(稲持)氏祖 石見国稲用(島根県大田市)守護代 生前贈与 母:土肥遠平娘(娘の母は万劫 遠平正室) 石見国を80年程治めた後に日向に移動 |
祐綱04 |
三男
三石氏祖備前国三石 (岡山県備前市三石)領主 生前贈与 母:土肥遠平娘(娘の母は万劫 遠平正室) |
祐明A04 |
四男(系図 三男) 田島氏祖(稲持) 伊勢国冨田荘(三重県四日市市富田) 日向国田嶋荘(宮崎県佐土原) 富田荘(宮崎県児湯郡新富町富田)領主 生前贈与【1252年受領】(稲持) 母:佐伯氏 佐伯氏は現大分県佐伯の豪族 祖父祐経03は九州の平家征討時に佐伯に本陣を構えた。その時の縁であろう。 |
祐氏A04 |
五男(五番)
長倉氏祖
播磨国長倉荘(兵庫県) 吉田領主(兵庫県神戸市兵庫区吉田町 または兵庫県洲本市五色町鮎原吉田) 子の祐隆B04は宮崎県倍木領主(現宮崎県新富町あたりか)子孫の祐省は1541年長倉能登守の乱 |
祐光A05 |
六男
伊東本家 鎌倉在住 伊東氏家督相続 信濃守八郎左衛門尉母:三浦氏(土御門内大臣の女とも) |
祐景05 |
七男(系図 七番)
門川氏祖
日向国冨田荘(宮崎県東臼杵郡門川町)地頭 縣庄(宮崎県延岡市)【1252年受領】 母:千葉氏(千葉氏は祐時03の母の実家) 後に13氏に分かれる。その一つが石塚 |
祐頼A05 |
八男(系図 八番) 木脇氏祖 日向国諸縣郡木脇 (宮崎県諸県郡国富町大字木脇) 日向国八代(宮崎県諸県郡国富町八代) 鎌倉在住 母:三浦氏 祐光A05の補佐 日向伊東氏3代(伊東祐宗05の後見) 後に日向に下向か |
祐忠A05 |
九男
稲用(稲持)氏祖 石見国稲用・伏見・長岡・御対(島根県) 甲斐国横手(山梨県北杜市白州町横手)領主 母:千葉氏(千葉氏は祐時03の母の実家) 石見国領主。次男祐盛A04は守護代 |
鷺町主 |
十男(系図記載なし) 肥後国松山鷺町(熊本県) 伊東院主 11男(系図記載なし) 紀伊国一の莊平領(和歌山県)遠山法師 |
注 上表に関しては若干異なる説もいくつかある。すべてが祐時の子ではないと思われる。 参考 長男祐朝A04が祐時03の跡を継いでいない。祐時03の父祐経03は祐親03の娘(万劫御前)を娶ったが、祐経03と祐親03が家督相続争いになると、祐親03は娘を祐経03から引き離し、土肥遠平に嫁がせた。こうした土肥氏と伊東氏の微妙な関係あった為といわれている。さらに土肥遠平の娘は祐時03の妻になり長男、次男、三男の母となっている。 源頼朝は長男の家督相続を認めず六男祐光A05の相続を裁可した。 祐光A05と補佐役の八男の木脇祐頼A05の母は三浦氏の女である。佐伯氏、三浦氏、千葉氏については情報源が不明瞭である。 祐光A05については祐親03の孫とする次のような説がある。
参考:▶河津氏(Wikipedia) (p120) |
源頼朝と祐親03の娘八重姫が通じ子が誕生する事件が起きる。祐親03は激怒し、八重姫を頼朝から引き離し、頼朝を殺害しようとした。これを知った祐親03の次男祐清E*は頼朝を北条時政(北条氏執権初代)の許に落ち延びさせた。頼朝が平家打倒の挙兵をすると、祐親03と祐清E*は平家方に加わり、二人は捕らえられ、祐親03は赦免されるが自害。祐清E*は、処刑されたとも、討ち死にしたともされる。頼朝は祐清E*から命を助けられた恩を忘ず、祐清E*の遺児祐光A05に伊東荘を与た。この説では7ページ図の祐光B*と祐光A05は同一人物となる。
2.守護・地頭とは 律令時代(7世紀末~8世紀初頭)には朝廷から任命された国司(現在の県知事相当)が、平安時代にはその次官(現在の副知事相当)などがそれぞれの国に赴任して政務を執り行うようになった。やがて田畠の私有地化や荘園の発達により領地支配は複雑になるが、1185年源頼朝が「地頭」の設置を朝廷から正式に認められ、旧体制の既得権益は徐々に地頭らのもとへと集約されていった。国々の行政一般を管掌する役職は、守護と国司であったが、室町時代に入ると国司の権限はほとんどなくなった。
・ 守護 | 国ごとに置かれ、地頭らを管理・統括する名目で設置された。 |
・ 守護代
| 守護の代官。守護が自分の土地に赴かないので、代わりに置かれた。後に、守護大名へと成長し戦国時代に大きく活躍することとなる。 |
・ 地頭 | 荘園や国衙領(公領)ごとに置かれ、主に年貢の取り立てや土地の管理をした。頼朝を主君とし、臣下となった武士たちが任命された。荘園の持ち主は領主。 |
・ 地頭代 | 地頭の代官 |
3.承久の乱 源実朝が鶴岡八幡宮で源頼家の子公暁(戒名)に暗殺された後、北条義時(2代執権 在位1205~1224年)が朝廷から形だけの四代将軍九条頼経を迎え入れ、執権として実権を握るようになった。これに激怒した後鳥羽上皇は義時追討の院宣を発布し挙兵したが幕府軍に敗北し隠岐に流された(「承久の乱」1221年)。 以降鎌倉幕府は、東国そして朝廷の支配が強固だった西国へと、武家政権として初めて日本全土の統治を目指し、六波羅探題などを設置した。田島祐明A04、門川祐景05が日向を受領したのは承久の乱の67年後の1252年で、北条時頼(5代執権 在位1246~1256年)の時である。
4.早川氏について 『祐時03の嫡子次郎祐朝A04、母は土肥左衛門尉遠平の女也。長門国三隅庄、並びに奥州鞭指庄松山を譲り得てありしが、後に安芸国奴田庄を領して、早川殿と申すなり』(日向記より) 土肥遠平(小早川遠平)は相模国土肥郷早川荘を領していた。平家滅亡後、安芸国沼田郡奴田庄の地頭に任命される。嫡男の維平には土肥家と早川荘を相続させ、養子を迎えて小早川景平と名乗らせて沼田荘を相続させた。遠平はその後に沼田荘に下向し、1237年没した。 遠平の没後、祐朝A04が沼田荘を受領し、早川と名のった。
5.祐時03の七男祐景05の日向下向 七男門川祐景05は1252年日向国冨田荘(宮崎県東臼杵郡門川町)と縣庄(宮崎県延岡市)の地頭を受領して日向に下向した。そののち、門川の本家は佐々宇津氏が受け継ぎ、他に 小松 日知屋 宮崎 曽井 山之城 飯田 平賀 石塚 池尻 清武 穆佐 村角 と13氏に分かれた。13氏は「門川党」と呼ばれる。祐景05の6世孫の祐武B12が1401年石塚城に入城したときに始めて「石塚」と名乗った。13氏のうち下線で示した姓は系図にも記載がある。 参考 祐景05(13氏)以外で日向に下向したのは稲用氏、田島氏、長倉氏、木脇氏。最後に伊東本家が下向した。
参考:▶早川氏のル―ツ (p009) |
参考:▶土肥遠平 (p010) |
参考:▶門川町文化財調査報告書第1集-江田城跡(p011) |
参考:▶「伊豆国の伊東氏と日向入国」郷土史家 末永和孝(p012) |
参考:▶伊東祐時 (p013) |
参考:▶門川城と米良四郎右衛門(米良祐次) (p014) |
参考:▶日向伊東氏略系図 (p015) |
6.土持氏 幕府から任命された地頭は耕地の拡大と支配権の拡大につとめ、荘園の領主や、所領の近隣の武士との間で紛争をおこすことが多かった。伊東氏は土持氏とは婚姻関係を結んだりもしたが、「木崎原の戦い」(1572年)の後、伊東本家が日向を離れるまで紛争は続いた。 「日向の國中世の館 門川町の城館」に次の記述がある。 『鎌倉期に工藤左衛門尉祐経03の子、伊東祐時03が七男の祐景05を下向させ、縣(宮崎県延岡市)と富田(門川町と日向市の大部分)を治めさせた。祐景05は門川殿と呼ばれ、その一族を門川党と呼び、日向北部から中部にかけて土着した。その後一度は土持氏に圧迫されてこの地を追われるが、伊東祐尭07が1457(長禄元)年の「小浪川の戦い」(鹿児島県財部町毛作原)で財部土持氏を滅ぼすと、門川城も伊東氏のものとなった。その後は伊東・土持両氏の最前線にあり、しばしば争奪の的となった。』 土持氏に関しては「土持氏(Wikipedia)」にも次のような記載がある。 『土持氏は宇佐八幡宮の社人とされる。日向国北部の臼杵郡を中心として広く開発された宇佐宮領の弁済使、あるいは臼杵郡司として勢力を伸張させ、12世紀以降、日向の有力な日下部氏との縁戚関係を強めることで、日向の在国司職やその他奈良時代以来の伝統を持つ日下部氏の権益の全てを獲得した。』 『日向に地盤を持たない伊東氏は地元の有力者である土持氏と婚姻関係を積み重ね日向に浸透していった。』
注 |
▪ 社人
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社に仕える人。神職 |
▪ 国衙
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国司が地方政務を執った役所 | |
▪ 弁済使
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平安時代以後、国衙領や一部の荘園に私的に設置された役職の一つ。官物租米等を収納し管理。 |
参考 荘園は奈良時代から室町時代にかけて全国に存在した貴族や社寺の私有地。1582年に始まった豊臣秀吉による太閤検地によって、荘園制度は一掃された。 参考 米の豊作が何よりも尊ばれた時代。藤原氏と手を結び、日本の政治を動かし権力と財力を持った宇佐神宮は、九州の総面積の3分の1を荘園に持つ、九州一大きな荘園領主となった。
参考:▶宇佐神宮 (p016) |
引用:▶土持氏 (p017) |
参考:▶日向の國中世の館 門川町の城館 (p018) |
Ⅱ-6 写真 05(鎌倉時代) [伊東 門川 稲用 木脇 小松 日知屋 佐々宇津]
写真05記載内容
①女子 [父:祐時03] ②祐光A05(すけみつ) 史 [日向伊東氏2代] [父:祐時03 六男] 信濃守八郎左衛門尉 祐光ノ守殿 注 祐光A05から祐堯07の兄弟まで(写真の水色の線) ③祐宗05(すけむね) 鎌~室 史 [日向伊東氏4代] [父:祐光A05] 大和守御舎弟七人 法名 慈證 注 1265年生~1339年没 ④祐景05(すけかげ) 出 史 [父:祐時03 七男] 門河(川)九郎左衛尉 富田庄地頭 七番(七男) 九郎 注 門川伊東氏の祖 門川祐景05 ⑤祐忠A05 史 [父:祐時03 九男] 注 稲用祐忠 ⑥祐廣A05 [父:祐忠A05] ⑦祐頼A05(すけより) 鎌 史 [日向伊東氏3代] [父:祐時03 八男] 木脇刑部左衛門尉 八番(八男) 与一 信濃守(祐光A05)同腹 参考 日向伊東氏4代祐宗05が幼少だったので後見と いう名目で日向伊東氏3代当主になった 木脇祐頼とも呼ばれた。1237年生~1293年没 ⑧祐継B05 史 [父:祐頼A05] 六郎左衛門尉 ⑨祐位05(祐広05) [父:祐頼A05] 左衛門次郎 ➡4.祐重B07(氏祐07)と木脇氏参照
⑩康祐05 鎌 出 史 [父:門川祐景05] 日知屋左衛門三郎 文永9(1272)年 京都被誅 注 日知屋は門川党の姓で、日知屋は日向市。 日知屋は「日智屋」とも書く。 被誅:上位の者が下位の者を処罰する ⑪盛祐05 史 [父:祐景05] 門河太郎左衛門尉 弟なれども将軍に自より惣領(祐景05の跡取り)を 給う也 注 京で誅殺された康祐05の弟 ⑫祐清A05 史 [父:祐景05] 小松左衛門尉 注 豊夜叉御前06の二番目の夫 ⑬祐有A05 史 [父:祐清A05] 佐々宇津孫六 ⑭祐胤05(すけたね) 史 [父:祐清A05] 小松八郎
鎌倉幕府将軍在位 初代 源頼朝 (1192~1199) 2代 源頼家 (1199~1203) 3代 源実朝 (1202~1219) 4代 藤原頼経 (1226~1244) 北条氏の傀儡 九条頼経 5代 藤原頼嗣 (1244~1252) 北条氏の傀儡 九条頼嗣 6代 宗尊親王 (1252~1266) 北条氏の傀儡 宮将軍 7代 惟康親王 (1266~1289) 北条氏の傀儡 宮将軍 8代 久明親王 (1289~1308) 北条氏の傀儡 宮将軍 9代 守邦親王 (1308~1333) 北条氏の傀儡 宮将軍
北条氏執権在位 初代 北条時政 (1203~1205年) 2代 北条義時 (1205~1224年) 3代 北条泰時 (1224~1242年) 4代 北条経時 (1242~1246年) 5代 北条時頼 (1246~1256年) 6代 北条長時 (1256~1264年) 7代 北条政村 (1264~1268年) 8代 北条時宗B*(1268~1284年) 二月騒動 元寇 9代 北条貞時 (1284~1301年) 10代 北条師時 (1301~1311年) 11代 北条宗宣 (1311~1312年) 12代 北条煕時 (1312~1315年) 13代 北条基時 (1315~1316年) 14代 北条高時 (1316~1326年) 15代 北条貞顕 (1326~11日 ) 16代 北条守時 (1326~1333年) 新田義貞に敗北