Ⅲ-1 写真 06(室町時代) [木脇 小松 日知屋 佐々宇津]
写真06記載内容
①祐氏B06 [父:祐位05(祐広05)] ②祐良06 [父:祐氏B06] ③祐朝B06 [父:祐位05(祐広05)] ④女子 [父:祐位05(祐広05)] ⑤女子 [父:祐位05(祐広05)] ⑥祐方06 [父:祐朝B06] ⑦祐忠B06 [父:祐朝B06] ⑧祐久B06 [父:祐朝B06] ⑨祐顕06 [父:祐継B05] 八郎九衛門尉 ⑩祐為B06 [父:祐顕06] 刑部左衛門尉 注 読みは「おさかべ」か ⑪祐朝C06 [父:祐為B06] ⑫祐郷06 [父:祐胤05] 小松十郎 注 小松は門川党の姓 ⑬祐豊A06 [父:祐有A05] 佐々宇津 注 門川党の姓 ⑭女子(豊夜叉御前06) 出 史 [父:康祐05] 幼名 土用夜叉 祐清A05妻上 法名 法心
注 日蓮宗妙円寺 豊夜叉御前06と比定 ⑮祐世06 史 [父:祐為C* 母:豊夜叉御前06] 日知屋孫九郎 参考 日知屋は門川一族の姓で、日知屋は日向市 ⑯祐康06(祐安B06)(すけやす) 室 出 史郷 [父:祐清A05 母:豊夜叉御前06] 始め日知屋のち伊東縣 将軍により縣ノ庄を賜う 注 系図では祐安B06となっているが、妙円寺跡石塔群 の資料では祐康B06となっている。系図に従って記載 すべきであるが混乱を避けるために祐康B06を採用す る。 注 「縣ノ庄」は宮崎県門川市。「伊東縣」は伊豆か
室町時代年表 1334年 建武の新政(後醍醐天皇) 1335年 中先代の乱(北条時行が鎌倉幕府再興を企 てる。足利尊氏が挙兵) 伊東祐持07が日向に下向 後醍醐天皇と足利尊氏は決別 1336年 湊川の戦い 足利尊氏が建武式目を制定 1336年 南北朝の対立 1349年 足利基氏が関東管領に任じる 1368年 足利義満が3代将軍になる 1378年 足利義満が室町邸に移る 1392年 南北朝の合一 1399年 応永の乱(大内義弘が起こした反乱) 1401年 足利義満が明と貿易を始める 祐武B12が石塚城入城 1404年 勘合貿易が始まる 1428年 正長の土一揆が起こる 1439年 上杉憲実が足利学校を再興する 1441年 嘉吉の土一揆が起こる 1443年 足利義政が8代将軍となる 1467年 応仁の乱(~1477年)
室町幕府将軍在位 初代 足利尊氏 (1338~1358) 2代 足利義詮 (1358~1367) 3代 足利義満 (1368~1394) 4代 足利義持 (1394~1423) 5代 足利義量 (1423~1425) 6代 足利義教 (1429~1441) 7代 足利義勝 (1442~1443) 8代 足利義政 (1449~1473) 応仁の乱 9代 足利義尚 (1473~1489) 9歳で就任 実権は義政 10代 足利義材 (1490~1493) 11代 足利義澄 (1493~1508) 再 足利義稙 (1508~1521) 義材を改名 12代 足利義晴 (1521~1546) 13代 足利義輝 (1546~1565) 14代 足利義栄 (1568 ) 15代 足利義昭 (1568~1588)
Ⅲ-2 考察 祐景から豊夜叉御前 石塚氏 清武氏 門川地方は、中世~近世にかけてのいつの時代においても国境地帯であり、土持氏と伊東氏、伊東氏と島津氏、島津氏と大友氏の領土をめぐる戦いに、常に翻弄されていた。そのような中で門川祐景05以降の資料が断片的で少ない。しかし、いくつかの断片的な資料を合わせると全体が見えてくる。
1.豊夜叉御前06 宮崎市教育委員会の広報誌「宮崎市の文化財~妙円寺跡石塔群」の中に、次の記述がある。 『門川氏の一族であった康祐05のむすめ豊夜叉御前06』『豊夜叉御前06の曾孫祐武B12その子祐種14(日仁14)、その子祐延*(日編*)』 図06の女子(幼名土用夜叉)を康祐05のむすめ豊夜叉御前06とすれば、 康祐05→豊夜叉御前06→祐康06→祐能07→祐武B12(豊夜叉御前06の曾孫)となり、系図と史実は一致する。 他にも大淀川流域地名いわれ事典本文「い」の項目の犬ノ馬場に次の記述がある 『石塚城は高蝉城の北約700メートルの所にあり、城主は門川伊東氏の6世の孫伊東祐武B12で石塚殿と呼ばれた。』 高蝉城は1401年に島津久豊が石塚祐武B12の石塚城を攻めるために築いた山城である。系図では祐武B12は門川祐景05を門川伊東氏の始祖とすると6代目で、ここの記述と一致する。 なお、豊夜叉御前06が系図に記載されて、その子の父親が記載されていないが、妙円寺跡石塔群の略系図によると豊夜叉御前06は初めは門川祐為C*(門川盛祐05の子)の妻で、その時の子が日知屋祐世06、後に小松祐清A05の妻となりその時の子が祐康06である。 系図によると、門川祐景05の長男日知屋康祐05(豊夜叉御前06の父)は1272年に京都で殺害されている。これは「二月騒動」での出来事かもしれない。そうであれば、九州と縁の深い北条時輔の討伐の時に誅殺されたのではないだろうか。 日知屋康祐05の孫(豊夜叉御前06の子)の祐康06は、系図によると将軍から日知屋のち伊東縣の領地を頂いている。また、曾孫日知屋祐春07は相模川で討ち死にしている。これは1335年の「中先代の乱」と考える。「中先代の乱」は関東周辺の武蔵国、下野国、駿河国、遠江国、相模国で戦われたので相模川も含まれている。そうするとここの将軍は「中先代の乱」以前なので鎌倉幕府となる。また、伊東本家は祐安A07(9代 大和守)の時代である。ただし、資料が無いので定かではない。 祐康06の3代あとの石塚祐武B12は1401年に石塚城に入城して石塚姓を名のった。系図では祐武B12は、初め南朝方で後に北朝(将軍)方になっている。祐康06も南朝方と考える。日向国内の南朝方も永く残っていたのであろう。 門川姓は消えても子孫は清武、石塚、日知屋、平賀、佐々宇津氏などとして残ったと言える。
引用:宮崎市の文化財~妙円寺跡石塔群(p019) |
引用:▶大淀川流域地名いわれ事典本文「い」 (p020)p20犬ノ馬場 |
参考 夜叉は仏法を守護する毘沙門天(戦いをつかさどる武神)の一族(八部衆)の一人。 八部衆は 天、竜、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩睸羅伽 参考「二月騒動」 「二月騒動」は、鎌倉時代中期の1272年2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉と京で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権北条時宗B*(在位1268~1284年)の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の北条時章、北条教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗B*の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗B*に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。 「名越氏」は北条一門でも九州に多くの守護職を持ち、嫡流の得宗家に次ぐ勢力があった。
参考:▶二月騒動(Wikipedia) (p021) |
参考 六波羅探題 六波羅探題は、鎌倉幕府の職名の一つ。1221年の「承久の乱」ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。西国で起きた地頭と国司などの紛争を処理する裁判機能、京都周辺の治安維持、朝廷の監視、皇位決定の取り次などを行った。紛争地帯の日向は関係が深かったのではないだろうか。 参考「中先代の乱」 「中先代の乱」は1335年、北条高時(14代執権 在位11316~1326年)の遺子時行が、信濃の諏訪頼重らの援助で鎌倉幕府再興を企て、足利直義(尊氏の弟)を破って鎌倉を占拠したが、8月足利尊氏に鎮圧された事件。
2.妙円寺跡石塔群 妙円寺跡石塔群は、板碑・五輪塔合わせて1237基を数える。室町時代を中心に江戸時代までの石塔群が一箇所に集中して存在している。その中には、門川流の名前も多く刻まれている。廃仏毀釈で廃寺になり、現在は千仏山本勝寺(法華宗)となっている。入口が細い道で見つけるのが大変である。
所在地:宮崎市大字浮田439 440(本勝寺境内)
石塔群系図によると豊夜叉御前06は初め門川祐為C*の妻、後に小松祐清A05の妻とある。さらに門川祐為C*との子が日知屋祐世06、小松祐清A05との子が祐康06となる。 本家に伝わる系図は豊夜叉御前06を入れて書いてあるが、妙円寺石塔群の系図は豊夜叉御前06を入れずに書いてある。妙円寺石塔群の書き方が正しいと考える。その方が日知屋、佐々宇津、木脇、小松氏の系譜がわかりやすい。
3.本家系図と妙円寺石塔群の系図との比較 本家系図 妙円寺石塔群の系図 豊夜叉御前06を中心に書くか、嫁ぎ先の門川祐為C*と小松祐清A05を中心に書くかの違いであるが、豊夜叉御前06を中心に書いた系図(上図)では嫁ぎ先の門川祐為C*が書かれていない。 門川祐景05の長男日知屋康祐05(日知屋氏祖)の娘が豊夜叉御前06で、初めは門川祐景05の次男門川盛祐05の子門川祐為C*に嫁いだ。その時の子が日知屋祐世06で、「日知屋」を継いだので「門川」は途絶えたことになる。資料が無いので正確ではないが、門川祐為C*は殺害されたと言う話も宮崎市生目地区に伝わる。そうであれば豊夜叉御前06の不遇なめぐりあわせや仏門に入った理由も納得できる。また、豊夜叉御前06が日蓮宗富士門流に帰依した後、日向国の過半が信仰するようになったと伝わっている。 系図に「祐清妻上」とあるが、これは門川祐景05の三男小松祐清A05(小松氏祖)のことで、豊夜叉御前06の叔父にあたり、二回目の嫁ぎ先である。小松祐清A05の間に三人の子があり、長男祐康06は清武氏と石塚氏、平賀氏に分かれ、次男祐有A05は佐々宇津氏祖、三男祐胤05は小松を継いだ。 祐武B12は祐景05から数えて、上図では6代目、下図では5代目となる。
4.豊夜叉御前06から清武氏へ 系図によると、豊夜叉御前06の孫祐能07の長男祐行A12は清武姓を名乗った。祐行A12は3代後までしか記載がない。 「宮崎市観光・文化 市指定史跡 133.清武城趾」に次の記載がある。 『伊東祐能07の子 清武祐行A12 が城(清武城)を築いた』 さらに「古城址深訪 清武城」に次の記載がある。 『清滝城は清滝祐行A12(祐能07の長男)によって拡張され、このときに清滝から清武へ改められたと伝わる。祐行A12は、一説には伊東祐重B07(伊東氏12代)の弟で、『日向記』によれば祐行A12の跡目の清武越後守祐恩12に祐行A12の跡目の清武越後守祐重B07の娘を娶らせたとされる。祐恩12の死後、その弟祐憲A15が跡を継いだ。』 注 系図では清武祐恩12の子の清武祐行B15が跡を継いだことになっている。これでは祖父祐行A12と同じ名前になってしまう。妙円寺石塔群の系図に従って祐行B15を祐憲A15とする。 系図の線の引き方であるが、必ずしも実子とは限らず、養子などの場合は家督を継いだという意味もあると考える。そうすれば、家督を継いだ清武祐憲A15は祐恩12の子ではなく、弟の可能性もある。同様に「祐行A12は、一説には伊東祐重B07の弟」の記述も同様に考えられる。 現代の系図では養子縁組の関係は、線を二重線にする方法が取られる。 注 系図では清武祐行A12の五男清武祐頼B12と六男清武掟誉12の母は「祐重B07の女、祐安A07の妹也」とある。これは祐恩12の子を祐行A12の養子にしたということか。あるいは祐重B07の娘の嫁ぎ先は祐行A12の可能性もあるのだろうか。 系図との比較 祐能07 → 祐行A12 → 祐恩12 → 祐憲A15→ 祐行B15 系図と史実一致
引用:▶宮崎市観光・文化 市指定史跡 133.清武城趾 (p022) |
引用:▶古城址深訪 清武城 (p023) |
Ⅲ-3 比較資料 祐堯07の子(室町時代) 祐堯07は文安元年(1444年)伊東祐立07の死去により36歳で家督を継ぐ。25人の子がいた。飫肥城攻撃の途中、清武城に滞在していたところ病死。享年77歳。日向伊東氏の中興の祖とされる名将。 25人の子について系図と史実を比較するために表にまとめた。子については系図上に緑の線で示してある。
番号 | Wikipedia | 系 図 |
1 | 土持堯綱正室 | 記載なし |
2 | 伊東祐國 | 祐國A07⑩ |
3 | 島津立久正室 | 女子07⑪(嶋津立久御前) |
4 | 伊東祐邑 | 祐邑08⑦ |
5 | 伊東祐英 | 祐英A08⑧ |
6 | 伊東祐円 | 祐圓08⑨ |
7 | 伊東祐兄 | 祐兄08⑩ |
8 | 佐土原豊前守正室 | 女子08⑪(佐土原豊前守妻上) |
9 | 伊東祐岑 | 祐岑09⑤ |
10 | 右松宮内少輔正室 | 女子08⑫(右松和泉守宮内少輔室) |
11 | 伊東幻生 | 幻生09⑥ |
12 | 伊東玉阿 | 玉阿09⑦ |
13 | 伊東大賢 | 奥禅寺09⑧ |
番号 | Wikipedia | 系 図 |
14 | 男(出家) | 大平寺09⑨ |
15 | 一海法印 | 黒貫寺10① |
16 | 男(出家) | 光孝寺10② |
17 | 伊東祐具 | 祐具10③ |
18 | 伊東祐運 | 祐運B10④ |
19 | 長倉若狭守正室 | 女子10⑤(長倉若狭守室) |
20 | 伊東美作守正室 | 女子11⑤(伊東美作守妻上) |
21 | 佐々宇津近江守正室 | 女子11②(佐々宇津殿妻上) |
22 | 清武三郎室 | 女子11③(清武三朗殿妻上) |
23 | 上別府尾張守正室 | 女子11④(上別府尾張守妻上) |
24 | 清武兵部少輔正室 | 女子11⑤(清武兵部少輔妻上) |
25 | 伊東河内守の正室 | 女子11⑥(伊東妻上) |
系図では興禅寺、大平寺、黒貫寺、光孝寺とあるが比定できないので順に並べてある。女子(土持堯綱の正室)を除けば人数は一致する。また、系図の二人の「祐」は史実を参考に祐具10と祐運B10とした。 系図と史実一致 参考 興禅寺(興禪寺)は宮崎県西臼杵郡高千穂町の曹洞宗の寺。 大平寺は宮崎県児湯郡高鍋町。 黒貫寺は宮崎県西都市都於郡町は真言宗智山派の寺。 光孝寺は宮崎県高岡町と推定する。(廃仏毀釈により廃寺か)
出典:▶伊東祐堯(Wikipedia) (p024) |
出典:▶伊東祐堯~日向伊東氏の中興の祖とされる名将 (p025) |
Ⅲ-4 写真 07(室町時代)[伊東 日知屋]
写真07記載内容
①祐能07(すけよし) 出 郷 [父:祐康06] 美作守七郎 久律良清武石塚地之地頭也 法名 妙祐 蓮華寺 注 久津良(現高岡町)・清武(宮崎市清武町)・石塚(現 宮崎市浮田) 参考 長男祐行A12が清武の地を、次男祐武B12 が石塚の地を相続したと思われる。 ➡石塚家は祐武B12(写真12)に続く ②女子 [父:祐能07] 木脇妻上 ③貞祐07(さだすけ) 鎌~室 史 [日向伊東氏5代] [父:祐宗05] 安芸守 法名實覚 御舎弟五人 注 1290年生~1345年没 ④祐持07(すけもち) 鎌~室 史 [日向伊東氏6代] [父:貞祐07] 三朗左衛門尉 照山光公 注 1350年没。湊川の戦い(1336年)に参加 都於郡城築城(伊東氏の本拠) ⑤祐重B07(氏祐07)(うじすけ) 鎌~室 史 [日向伊東氏8代] [父:祐持07] 大和守 實山真公 注 1324年生~1378年没。足利尊氏から一字を与えられ る。幼名虎夜叉丸。日向伊東氏は基本的に北朝方(尊 氏派) ⑥祐安A07(すけやす) 室 史 [日向伊東氏9代] [父:祐重B07(氏祐07)] 大和守 ■(祝)山喜公 注 1434没 ⑦祐立07(すけはる) 室 史 [日向伊東氏10代] [父:祐安A07] 大和守
注 上洛の途中に播磨国疣河の渡しで落馬して死去(兵 庫県揖保川) 1385年生 1444年没 ⑧祐堯07(すけたか) 室~戦 史 [日向伊東氏11代] [父:祐立07] 大和守 惣昌院殿源徳本公 七十七卒(卒は死亡の意味) 注 1409年生~1485年没 参考 祐立07の嫡男祐武D*は早世したので嫡孫の祐堯07 が家督を継いだとの説がある。 ⑨祐賀07(すけよし)史 [父:祐立07] 佐土原殿 土持尭継ノ妻上ナリ嫡女子 土持殿十六卒 参列九十卒 参考 田嶋家の一人娘は土持尭継の妻であったが呼び戻 して祐賀07が婿養子になったと言う意味か ➡「5.伊東祐堯07・祐賀07・祐國A07」参照 ⑩祐國A07(すけくに) 室~戦 史 [日向伊東氏12代] [父:祐堯07] 光照寺殿笑山歓公 六郎左衛門 三十八卒 注 享徳 3(1450)年生 文明17(1485)年6月21日飫肥城攻撃の際に戦死(35 歳) ⑪女子 史 [父:祐堯07] 嶋津立久御前 ⑫尹祐07(ただすけ) 史 [日向伊東氏13代] [父:祐國A07] 注 系図は「尸祐」とある。「尸」は「尹」転記ミス の可能性あり。史実である「祐國」の子「尹祐」 と比定できる。 注 1468年生~1523年没 ⑬祐梁07 [父:祐國A07] 左衛門尉 注 系図では「祐」であるが史実より「祐梁」と比定。 ⑭祐春07 [父:祐世06] 日知屋六郎 於テ二相模川ニ一討死ス 注 中先代の乱(1335年)で祐持07側(尊氏側)として北条 時行と戦ったと考える。 ⑮祐範07 [父:祐春07] 伊豆守 法名 法一 ⑯祐久C07 [父:祐範07] 薩摩守日知屋 善邑 宮崎
参考:▶伊東祐國(Wikipedia) (p026) |
参考:▶飫肥城 (p027) |
Ⅲ-5 参考資料 室町時代の伊東本家
1.室町時代の伊東氏本家当主
伊東氏本家祐持07が下向してから庶流を統合し終える祐國A07までおよそ100年を要している。
2.南北朝時代 1332年後醍醐天皇は倒幕を図り挙兵したが、捕えられて隠岐に流された。 足利尊氏は、1333年に隠岐から脱出した後醍醐天皇が再び鎌倉幕府の打倒を目指して挙兵した際、その鎮圧のため幕府軍を率いて上洛したが、鎌倉幕府への反乱を宣言、六波羅探題(京都の幕府の出先機関)を滅ぼした。 尊氏は、後醍醐天皇の新体制である「建武の新政」下で、鎌倉方の北条時行(北条高時の遺児)が起こした「中先代の乱」(1335年)を鎮圧したあとも鎌倉に留まり、恩賞を独自に配布したことで天皇との関係が悪化、「建武の乱」(1336年)が勃発した。「箱根・竹下の戦い」(1336年)では大勝するが、「第一次京都合戦」(1336年)および「打出・豊島河原の戦い」(1336年)で楠木正成や新田義貞に敗北し、一時は九州に落ち延びた。 再び太宰府天満宮を拠点に挙兵、「経島・湊川の戦い」(兵神戸市中央区・兵庫区 1336年)に勝利し、上洛して京都を制圧。光明天皇(北朝持明院統)を支援した。尊氏は、北朝から権大納言に任ぜられ、鎌倉将軍を継承する存在と見なされた。足利尊氏が京都で新たに光明天皇を擁立したのに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇(南朝・大覚寺統)は1337年吉野行宮(一時的な宮殿)に遷った。 1392年足利義満(3代執権 在位1368~1394年))の斡旋で、大覚寺統と持明院統の両統迭立(交互に皇位につくこと)と、全国の国衙領を大覚寺統の所有とすることを条件に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し南北朝が合体した(明徳の和約)。合一が行われるものの、両統迭立の約束が守られることはなく持明院統(北朝)の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続いた。
引用:▶南北朝時代(日本)(Wikipedia) (p028) |
参考 隠岐へは身分の高い天皇や公家などの政治犯者が流された。隠岐が遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活に問題が少ないということがあった。
3.尊氏と伊東祐持07 「中先代の乱」(1335年 神奈川県)で伊東祐持07は初めは北条時行に味方していたが、8月14日清見関(静岡県静岡市清水区興津)で京都から攻め下ってきた足利尊氏に降り、その後尊氏側で8月18日相模川の先駆をつとめた。軍功のあった祐持07は1335年に尊氏から日向国都於郡院(宮崎県西都市)を賜り、この年に日向に下向し都於郡城を築く。 1336年九州に落ち延びた尊氏は、再び東上する。このとき祐持07は尊氏に同行し、経島・湊川の戦い(兵神戸市中央区・兵庫区 1336年)に参加して軍功があった。 日向の地は伊東氏庶流がそれぞれ在地に領主として支配権を確立、伊東氏本家とは疎遠となっており、加えて木脇伊東氏は南朝を支持しており微妙な状況であった。門川祐景05の庶流の下向から祐持07の下向までおよそ83年の時が過ぎている。祐持07は先に下向していた庶流の力を結集して日向国に於ける勢力を増大させようとしたが、庶流にとっては圧迫以外の何物でもなかった。また、畠山直顕(国大将 日向守護)に属して日向国内の南朝方とも戦ったが日向の実効支配はならず1348年上洛し病没。都於郡城も木脇氏に横領されてしまう。 考察 祐持07は戦わずして尊氏に従ったと考える。清見関の戦いと相模原の戦いの間は四日と短いが、祐持07はすぐに相模川の先駆をつとめている。二人とも鎌倉幕府の御家人であり、祐持07は尊氏に賛同したと考える。尊氏は武家の頂点の清和源氏の血筋であり、祐持07は藤原南家の血筋である。同じ御家人ではあるが伊豆国出身の地方豪族である北条氏の執権政治体制に対する不満も高まっていたのではないか。
4.伊東祐重B07(氏祐07)と木脇氏 伊東祐持07が京で客死すると、父伊東貞祐07の弟祐守*の子祐熈*が家督を継いで日向に向かったが、その途中の周防(山口県東部)で遭難死した。そこで若年ではあったが祐持07の嫡男伊東祐重B07が家督を継いで日向に下向した。その若年につけこんだ叔父伊東祐藤B*(祐持07の弟)は、本領の伊東庄を横領した。祐重B07は下向したとき木脇祐広05(祐位05)・祐氏B06父子の抵抗で都於郡城には入れず付近の石野田城に入った。 その後祐重B07は木脇氏の婿になり、木脇氏は本宗家に継承された。やがて木脇氏は断絶し、伊東祐堯07の弟祐為A08が改めて養子に入り、木脇氏を相続した。 参考 祐藤B*の子は足利尊氏に伊東荘を追われた。伊東氏は、伊豆国の伊東荘を失い直接の関係は絶えた。 参考 畠山直顕は尊氏一門の武将で1336年日向・大隅の国大将として日向の穆佐院(将軍御台所領)に下向。南九州の宮方征伐を命じられた。1345年日向守護。国大将は室町幕府が紛争地域に派遣した広域を管轄する武将の指導者。 参考 祐熈*の相続は家督争いの結果で嫡流ではない。遭難に関しては「天道は悪を許さず」と京では噂された。 注 伊東祐藤B*は貞祐07の子(祐持07の弟)。 ➡比較資料参照
参考:▶日向の国中世の館日向の武将 (p029) |
参考:▶武将の家門の女性物語 (p030) |
5.伊東祐堯07・祐賀07・祐國A07 伊東祐堯07(11代)が財部土持氏を滅ぼして平野部から土持氏の勢力を駆逐し、北は門川、南は紫波洲崎(宮崎県宮崎市)までを支配するようなった。祐堯07の弟祐賀07は娘婿として田嶋家(田嶋休祐)に入ったが、田島姓を名乗らずに兄の旧姓である佐土原姓を名乗り、事実上、田嶋氏を滅ぼす。さらに、伊東祐國A07(12代 1450年生~1485年没)が形式的に佐土原氏の当主の養子となり、名実共に伊東本家の佐土原支配が成立、それまでに木脇伊東氏及び門川伊東氏も滅ぼしていることから日向国における伊東氏庶流は本家に統合された。 1484年島津久逸(島津伊作家8代 櫛間城)は島津忠昌(11代 1463年生~1508年没)に叛旗を翻し新納忠続の守る飫肥城を攻撃した。祐堯07と祐國A07はこれを援助し飫肥城を攻撃したが祐堯07は1485年出陣中に清武城で急死。祐國A07は弟祐邑と再び攻撃し、島津忠昌と楠原(宮崎県日南市)で交戦の最中に討ち死にした。この戦いの原因は、忠昌の家臣忠続が久逸を伊作(鹿児島県日置市吹上町)へ還すように願い出て、忠昌がこれを聞き入れたことにある。 伊東祐立07と祐堯07との親子関係は諸説あるが、いずれにしろ、祐堯07が家督を継ぎ土持氏から室を迎えた
参考:▶日向伊東氏 (p031) |
参考:▶佐土原城の歴史 (p032) |
参考:▶戦国大名探求 伊東氏 (p033) |
6.島津立久 島津立久(1432年生~1474年没)は室町時代の守護大名。薩摩・大隅・日向守護。嶋津氏第10代。妻は鏡堂夫人(伊東祐堯07の娘)、芳雲夫人(薩州島津家初代島津用久の娘)、茂山夫人(梶原弘純の娘)。 日向の伊東祐堯07と和睦して婚姻を結んだことで、日向国への影響力は低下したもの、薩摩・大隅の経営に専念したため、領内は平穏な日々が続いていた。
参考:▶島津立久(Wikipedia) (p034) |
参考 城郭
日向にはじめて下向した伊東祐持07により建武4(1337)年築城。別名、浮船城。「木崎原の戦い」(1572年)で伊東本家は島津氏に大敗し、日向を脱出し、都於郡城主としての伊東氏の時代は終わり、島津氏が支配するところとなった。島津氏の佐土原藩(佐土原島津家)が発足(1603年)すると、本城の佐土原城に対して外城となったが、1615年の一国一城令によって廃城。
参考:▶都於郡城(Wikipedia) (p035) |
建武年間(1334年~1338年)に田島休助によって田島城として築城。1427年田島氏は城を追われ、祐賀07(祐堯07の弟)が入城し佐土原氏を名乗った。 1536年伊東義祐11(伊東16代)が佐土原城に入ったが翌年火災で焼失し、義祐11は宮崎城へ移った。五年後、跡地に新しく鶴松城として建てられた(通称は佐土原城)。1572年の「木崎原の戦い」の後、1579年島津義久の実弟家久が城主として入った。
参考:▶佐土原城-古城盛衰記 (p036) |