室町~戦国時代2

Ⅲ-6 写真 08(室町時代)[伊東]

写真表示 写真082022/07/18撮影

写真08記載内容

祐為A08  [父:祐立07] 木脇殿 刑部左衛門尉 ②祐幸08  [父:祐立07] 伊豫守 ③祐友A08  [父:祐立07]  左衛門尉 ④存忠08  [父:祐立07]  奥■■ 此下二字程破損  陸奥守ではないか ⑤東奥庵08  [父:祐立07] ⑥女子  [父:祐立07] 八代主■助妻上

祐邑08(すけさと)  [父:祐堯07] 野村腹 次郎 三十七卒  系図の邑は口の下に也 ⑧祐英A08(すけひで)   [父:祐堯07] 永井腹 伊勢守 ⑨祐圓08(すけちか)   [父:祐堯07] 平賀腹 播磨守 ⑩祐兄08  [父:祐堯07] 土持腹  越前守 法名 利忠貢公 ⑪女子  [父:祐堯07] 土持腹  佐土原豊前守妻上 ⑫女子  [父:祐堯07] 野村腹  右松和泉守宮内少輔室 ⑬祐武A08(すけたけ)   [父:祐國A07 三男]  弾正左衛門尉  系図ではであるが兄弟などから類推して祐武A08  と比定した。  天文2年(1533)武州の乱で自害 ⑭女子  [父:祐國A07] 相良長祐御前  史実としては相良長毎  相良長毎(1469年生~1518年没)は肥後人吉藩相良氏  の13代当主 ⑮女子  [父:祐國A07] 右松六郎三郎妻

参考:伊東祐武(Wikipedia) (p037)

参考 官位  律令制は7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施され、朝廷が諸国を官僚制により直接統治した。官位とは一位~七位(正従上下あり)の位階(階級)と大納言、中納言などの官職名(職名)のことで、室町時代以降は名前ばかりの官位として、公家や武士の身分、栄誉の表示にすぎなくなり、明治維新まで続いた。  官位は、律令制が崩壊した後も権威として武士の序列を明確化する目的で使用された。源頼朝は御家人の統制のため、御家人が幕府の許可無く任官することを禁じ、後に幕府から朝廷へ申請する形が制度化された。  戦国時代になり幕府の力が衰えると、大名が直接朝廷から官位を得る例が増加し、やがて朝廷からの任命を受けないまま官名を自称する例も増加した。  もともとは国司の官職名で、が現代の県知事、が副知事に相当し、受領地+職名で表していたが、武士の時代となると領地とは関係のない場合が多く、家の慣例や好みにより申請し、それを幕府が許可するという仕組みで支障がなければ当人が伺出た名乗りをそのまま認めた。島津家が代々名乗ることの多い薩摩守などは名乗ることを憚られていた。

位階
(階級)
官職名
(職名)
位階
(階級)
官職名
(職名)
正一位関白正三位大納言、権大納言
正六位下上総、能登守、式部大丞…他従六位下淡路、壱岐守、左衛門大尉…他
正七位上左衛門少尉、右衛門少尉…他正七位下左兵衛大尉、右兵衛大尉…他
従七位上左兵衛少尉、右兵衛少尉…他
※ 征夷大将軍は相当する位階が設定されていない。

Ⅲ-7 写真 09(室町時代)[伊東]

写真表示 写真092022/07/18撮影

写真09記載内容

女子  [父:祐立07]  仮田肥前守妻上 ②女子  [父:祐立07] 右松和泉守妻 ③女子  [父:祐立07] 椛山金吾妻 ④祐豊B09  [父:祐立07]  十郎 早世 ⑤祐岑09  [父:祐堯07]  伊豫(予)守 四十九卒右(上)同腹 ⑥幻生09  [父:祐堯07]  定徳院殿 早世 ⑦玉阿09  [父:祐堯07]  早世 ⑧興禅寺09  [父:祐堯07] 本城腹 ⑨大平寺  [父:祐堯07] 野村腹 ⑩祐運A09(すけかず)  [父:祐兄08]  右馬亮


Ⅲ-8 真 10(室町時代)[伊東]

写真表示 写真102022/07/18撮影

写真10記載内容

黒貫寺10  [父:祐堯07] 野村腹 ②光孝寺10  [父:祐堯07] 青山腹 ③祐具10  祐とあるが史実より祐具  [父:祐堯07] 野村腹 ④祐運B10  [父:祐堯07] 野村腹  祐とあるが史実より祐運 ⑤女子  [父:祐堯07] 野村腹 長倉若狭守室  長倉若狭守は綾地頭。綾城に立てこもり自害。  (1510年綾の乱) ⑥女子  [父:祐兄08] 伊東三朗右衛門尉妻上 ⑦女子  [父:祐兄08] 佐土原六朗四朗妻上 ⑧出家 興禅寺  [父:祐兄08] ⑨御曹子祐充10(すけみつ) [日向伊東氏14代]  [父:尹祐07]  1510年生~1533年没 ⑩嫡女子(嫡出の長女)  [父:尹祐07] 新納殿御臺


Ⅲ-9 参考資料 日向伊東氏歴代当主  日向伊東氏の初代は日向国地頭を命じられた祐時03とするものと初めて日向に下向した祐持07とするものと二通りの数え方があるので、飫肥藩時代も含めて並べてみた。

日向
伊東
本家
下向
史実系 図生  没
初代祐時祐時031185~1252 
日向伊東氏の祖 鎌倉在住
  2祐光祐光A05      
祐時03の六男祐光A05が家督相続
  3祐頼祐頼A051237~1293 
祐時03の八男4代祐宗05が幼少だったので後見
  4祐宗祐宗051265~1339 鎌室
  5貞祐貞祐07  ~1345 鎌室
  6初代祐持祐持07  ~1350 鎌室
足利尊氏の命で本家が日向に下向(1335年)
  7  2祐熈記載なし
  8  3祐重祐重B071324~1378 鎌室
足利尊氏から1字もらい氏祐07と改名
  9  4祐安祐安A07  ~1434 
大和守
 10  5祐立祐立071385~1444 
 11  6祐堯祐堯071409~1485 室戦
 12  7祐國祐國A071450~1485 室戦
 13  8尹祐尹祐071468~1523 
 14  9祐充祐充10 1510~1533 
早世
日向
伊東
本家
下向
史実系 図生  没
 15 10祐吉記載なし1517~1536 
武州の乱 兄の義祐11は出家
 16 11義祐祐清B11改名1512~1585 
還俗して家督継承 木崎原の戦い後日向脱出
 17 12義益1546~1569 
都於郡の岩崎稲荷に参籠中、病にて死去
 18初代祐兵1559~1600 戦江
飫肥藩初代
 19  2祐慶参考系図に記載無し1589~1636 
 20  3祐久1609~1657 
 21  4祐由1631~1661 
 22  5祐実1644~1723 
 23  6祐永1689~1739 
 24  7祐之1727~1744 
 25  8祐隆1716~1757 
 26  9祐福1741~1781 
 27 10祐鐘1772~1798 
 28 11祐民1792~1812 
 29 12祐丕1797~1814 
 31 13祐相1812~1874 
 32 14祐帰1855~1894 江明
   祐熈と祐吉を除き義祐11まで系図と史実一致 

伊東本家 日向を離れてから飫肥藩に復帰  1577年伊東義祐11(16代)が佐土原を追われると、伊東祐兵*ら一族もこれに同行。このとき17代伊東義益*はすでに死去している。  大友宗麟の助力を得たが、宗麟は1578年に門川の土持氏を攻め滅ぼした後、耳川以南で島津氏と激突(耳川の戦い)大敗する。その後、祐兵*は豊臣秀吉の家臣となった。「山崎の戦い」などで活躍し、秀吉による「九州平定」(1586~1587年)においても先導役を務めた。  祐兵の仕官を見届けた義祐11は中国地方を気儘に流浪していたが、やがて病に侵され、祐兵*のいる堺へ向かった。しかし便船の中で病衰し、堺の屋敷で看病を受けたものの、73歳で死去した。  「九州平定」により島津氏は日向国の伊東氏旧領を全て明け渡した。祐兵*は「九州平定」の功により10年越しに日向国飫肥へ大名(飫肥藩初代)として復帰した。 「山崎の戦い」は、1582年本能寺の変を受け、山崎から勝龍寺城一帯(京都府)で、秀吉明智光秀が戦った。  秀吉は日吉丸、木下藤吉郎、木下秀吉、羽柴秀吉、平秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉と何回も改名しているが、最終的には1586年太政大臣となり、朝廷から豊臣の姓を賜った。本書では豊臣秀吉で統一した。

Ⅲ10 写真 11(室町時代)[伊東]

写真表示 写真112022/07/18撮影

写真11記載内容

女子  [父:祐堯07] 野村腹  伊東美作守妻上 ②女子  [父:祐堯07] 野村腹  佐々宇津殿妻上  史実では佐々宇津近江守、佐々宇津は門川党 ③女子  [父:祐堯07]  清武三朗殿妻上 野村腹 祐邑妹(祐邑08) ④女子  [父:祐堯07]  上別府尾張守妻上 野村腹 祐邑妹(祐邑08)

女子  [父:祐堯07] 野村腹  清武兵部少輔妻上 ⑥女子  [父:祐堯07]  伊東妻上( 伊東河内守室) ⑦女子  [父:尹祐07]  嶋津忠廣御前 史実では、島津忠治(12代)の妻(玉蓮夫人) ⑧女子  [父:尹祐07]  北原殿御前 ⑨女子  [父:尹祐07]  伊東太郎次郎御前  写真10の⑩と写真11の⑦⑧⑨は尹祐07の正室の子  で男子無し。 ⑩祐清B11(義祐11)[日向伊東氏16代]   [父:尹祐07] 伊東九衛門尉と号す  義祐(よしすけ)と改名。以降は義祐11で統一する。  1512年生~1585年没 ⑪女子  [父:尹祐06] ⑫女子  [父:尹祐07]


Ⅲ11 写真 12(室町時代)[清武 平賀 石塚]

写真表示 写真122022/07/18撮影

写真12記載内容

祐行A12  [父:祐能07]  清武越後守 法名 ほうみょう行鑑 ②女子  [父:祐能07] 法名 赱山等覚 宮崎丹後守妻上 ③祐武B12(すけたけ)    [父:祐能07] 法名 妙和  石塚肥後守孫次郎 此子討死 和泉殿 肥後殿  此邊少し釣(名前をつなぐ線)違有記  此子討死祐条乃事也(祐条13)  初宮方後将軍方  「釣違」は線の引き方が違うという意味 参考 1392年の南北朝合一の後も北朝と南朝の争いは   各地で続いた。  法名 妙和は④祐興12で、③祐武B12法俊ではな  いか。  系図では肥前守、「新編生目郷土史」では肥後守  筆写のミスと考え肥後守を用いる。 「祐武B12と石塚城」参照。

祐和A12(祐興12)(すけまさ)   [父:祐能07] 平賀三郎 法名 法俊  妙円寺石塔群系図では祐興12。系図では祐和A12祐家B12  [父:祐能07]  石塚伯耆守次郎  伊予守子左京亮養子ニス祐恩12  [父:祐行A12]  清武越後守 法名 行恩 ⑦祐國B12  [父:祐行A12]  中山左衛門次郎 ⑧祐久D12  [父:祐行A12] 九郎 早世 ⑨祐廣B12  [父:祐行A12]  遠江守 平賀次郎左エ門 養子三人 ⑩祐頼B12  [父:祐行A12]  播磨守七郎 母ハ祐重B07ノ女 祐安A07ノ妹也 祐重B07(氏祐07)は日向伊東氏8代(1324年生~1378年   没)。祐安A07は日向伊東氏9代(大和守)。 ⑪掟誉12(じょうよ)  [父:祐行A12] 中将公 右(上)同腹


Ⅲ12 考察 祐武B12と石塚城

祐武B12は、門川祐景05(日向伊東の庶流)の子孫である。応永8年(1401)に石塚城に入城し島津勢を追い払った。  祐武B12は「石塚殿」と呼ばれていて、これ以降石塚姓となっている。伊東本家の進出により、15世紀初めには石塚城もその傘下に入った。祐武B12初めは南朝方であったが後に北朝方(尊氏方)になっている。  写真12で祐武B12の通称は肥前守孫次郎とあるが、「新編生目郷土史」では肥後守孫次郎である。  島津勢は、島津久豊(島津氏8代)であろう。1401年に日向の伊東氏を牽制するために伊集院久氏の後任として日向国穆佐むかさ城に遣されている。その後は和睦し、伊東祐安A07(大和守 9代)の娘を娶って嫡子の忠国(島津家9代)を儲けている。

   石塚城主「伊東祐武(石塚肥後守孫次郎)」の墓
写真表示 2022/09/28撮影

 妙円寺跡石塔群


   石塚城跡(宮崎市立生目小学校)
写真表示 2022/09/28撮影

 宮崎県宮崎市浮田2920番地

   石塚城跡
写真表示 2022/09/28撮影

 小学校の校庭から裏山を撮影


 応永25(1418)年都於郡城の伊東本家祐安A07祐武B12との話し合いの上、車坂城と交換した。車坂城は別名海江田城で現宮崎市立学園木花台小学校にあった。(石塚城の南約20km)

参考:「新編生目郷土史」96ページ

参考 平賀氏  祐景05から6代目、祐武B12の弟祐和A12(祐興12)A12は1403年紀伊国平賀に居住しておりその地名から平賀を名乗る。1413年日向国高岡郷久津良(宮崎市高岡町)に移った。父祐能07は久津良石塚の地頭である。系図によると祐和A12(祐興12)の嫡男祐条13は討死し、清武祐行A12の四男祐廣B12が後を継いだ(このとき祐条と改名か)。祐条13祐武B12の甥であり島津との争いで討死と推察する。  また、祐廣B12から二代後の祐義*は石塚地頭となっている。永禄年間(1558~1570年)のころ石塚城主は平賀刑部少輔*である。

参考:みやざき風土記 日向の仏師 平賀快然1 (p038)

参考 「新編生目郷土史」から  生目郷土史98ページに祐武B12について、「法名法俊、応永17(1410)年没」とあるが、96ページの「応永25(1418)年伊東祐安A07は石塚城主祐武B12を車坂城に移し」の記述と矛盾する。また、系図によると祐武B12の法名は名和で、弟の祐廣B12の法名が法俊となっている。

写真表示

考察日知屋衆豊夜叉御前06の父康祐05(1272年没)は日知屋左衛門三郎を名乗っているのでこの地を治めていたと推測する。系図には康祐05の6代後(1400年頃)まで記載がある。その後は土着して「日知屋衆」と呼ばれた武士の集団になって行ったのではないか。「出水衆」と同様に半農半士であったのであろう。門川城、塩見城が近くにあり、こちらにも「門川衆」「塩見衆」と呼ばれる人達がいる。これらの集団は島津との戦いなどに動員された記録が残る。  この地には後に日知屋城が作られた。日知屋城は伊勢ケ浜脇の海に囲まれた断崖上にある城で、築城年は1469年~1487年で伊東祐堯07(伊東氏11代)の時代である。築城者は不明。  1484年都於郡城の伊東祐堯07、長男祐國A07と二男祐邑08が島津氏の飫肥城を攻めたが、祐國A07が討死して敗北を喫し祐邑08は日知屋城に引き上げた。  都於郡城の伊東尹祐07(伊東氏13代)がまだ幼少であったことから祐邑08が宗家を乗っ取るのではないかと疑われ、祐邑08は伊東本家の家臣に日知屋城にて暗殺された。

参考: 日向 日知屋城 (p039)

    日知屋城址 所在地:宮崎県日向市日知屋1
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    日知屋城址
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    戦国時代年表 1477年 応仁の乱が終わって武将が帰国     戦乱が地方に広がる 戦国時代の始まり 1485年 山城の国一揆 1488年 加賀の一向一揆が起こる 1541年 長倉能登守の乱(日向) 1533年 武州の乱(日向) 1555年 川中島の合戦 1557~1574年 三州統一(島津貴久) 1560年 桶狭間の戦い(織田信長が今川義元を破る) 1565年 将軍・義輝が殺される 1568年 織田信長が足利義昭を迎え入京     義昭が将軍となる 1571年 比叡山延暦寺の焼き討ち(織田信長) 1572年 木崎原の戦い(えびの) 1573年 信長が足利義昭を追放     室町幕府の滅亡 徳川家康まで将軍不在 1574年 長島一向一揆 1575年 長篠の戦い     (織田信長徳川家康連合と武田勝頼の戦い) 1579年 安土城天守閣の完成 1580年 石山合戦の終結(本願寺と織田信長との戦い) 1582年 本能寺の変(明智光秀が織田信長を討つ)     山崎の戦い(豊臣秀吉が明智光秀を討つ) 1585年 豊臣秀吉関白に任命される 1586年 豊臣秀吉が太政大臣 豊臣姓を賜る 1586年~1587年 九州平定 1587年 豊臣秀吉によるバテレン追放令の発令 1588年 豊臣秀吉刀狩り令の発令 1590年 豊臣秀吉による天下統一 1592年 文禄の役(朝鮮出兵) 1596年 慶長の役(朝鮮出兵) 1598年 豊臣秀吉、死去 1599年 庄内の乱(島津忠恒 伊集院忠真) 1600年 関ヶ原の戦い 1603年 徳川家康が征夷大将軍に就任


参考:ゆめのある子応援日記 (p040)
参考:宮崎市の文化遺産(55頁)宮崎市教育委員会文化財課 (p041)
引用:歴史探訪記 石塚城跡 (p042)

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