江戸時代

Ⅴ-1 考察 国分から出水へ  国分から出水に移動したという伝承について、その時期の歴史的背景を考察してみた。

1.富隈城と国分城島津義久(1533~1611年)16代当主は、隠居(1602年)してのちに鹿児島市から隼人はやと町の富隈城(築城1595年~廃城1604年)に、続いて国分城(1604年)に居を移している。その後1611年に没するまでの7年間住んでいた。  国分城(別名舞鶴城)は天守閣を持たない「屋形造り」で、裏山には後詰めの城「隼人城(熊襲くまそ隼人の居城との伝承がある)」があった。国分城は1877年の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯。その後は霧島市立国分小学校となっている。なお、隼人城は現在国分城山公園となっている。  富隈城 鹿児島県霧島市隼人町   城主:島津義久 築城1595年 廃城1604年  国分城 鹿児島県霧島市国分中央  城主:島津義久 築城1604年 廃城1877年(明治10年)

2.国分から出水へ  石塚家が国分から出水に移ったのであれば、国分城築城(1604年)以降であろう。これは「関ヶ原の戦い」(1600年)の後である。石塚家が国分にいたならば国分城城主は島津義久であり、弟の島津義弘の指揮した関ヶ原の戦いに参加していないと思われる。

参考:島津義久(Wikipedia) (p055)

3.薩州島津家  室町から戦国時代、出水・阿久根を統治していたのは島津氏の分家薩州島津家である。(1453~1593年)  出水・阿久根は秀吉の朝鮮出兵(1592~1598 文禄・慶長の役 秀吉の死をもって終結)の後、豊臣家の直轄領となり、その後、1599年島津本家に返還された。  返還の後、かなりの数の武士が数年にわたり藩内各地から出水に移動した。このことは薩州出水衆中軍役高帳3番にその記録が一部残っている。石塚家は薩州島津家に仕えたことは無いことになる。

4.出水地頭 山田有栄  戒名は「昌巌松繁庵主」。1629年出水郷第三代地頭として福山(霧島市)から赴任。主な活躍は以下

1598年 大隅国福山の地頭
1600年 「関ヶ原の戦い」のとき敵中突破で島津義弘を助け活躍
1629年 薩摩国出水地頭
1636年 島津家家老
1650年 家老職を辞任
1668年 隠居していた出水郷軸谷(出水市上鯖渕萩之段田之頭地区)にて没

山田有栄は勤倹尚武の徳をすすめるとともに、産業の振興にも意を注ぎ、軽薄の風を厳しく戒め、善政をしき、「出水兵児」の気風を作った。  石塚祐喜A17は1620~1628年の軍役高帳3番に名前があるので、山田有栄より先に出水に移動している。

参考:山田有栄(Wikipedia) (p056)

5.九州平定  島津氏は日向に続き、筑後(現久留米、大牟田市あたり)の国人領主衆も傘下に収め、北九州への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。豊後の大友宗麟は、島津氏の圧迫を回避するため、天下統一の道を歩んでいた豊臣秀吉に助けを求めた。これを受け秀吉は1585年10月、島津義久ら九州の諸大名に停戦命令を発する。それに従わず島津軍は1586年6月筑前・筑後に侵攻し勝尾城(佐賀県鳥栖市)、岩屋城(福岡県太宰府市)を落とす。  秀吉は九州攻撃令を出し、8月毛利輝元が出陣して豊前の小倉城に進軍。止むを得ず島津軍は撤退。福岡県、大分県で戦いが繰り広げられる。

   薩州島津家の墓
写真表示 2022/09/29撮影

 正面が初代用久公とその夫人の墓  出水市麓町1452 龍光寺墓地

   山田昌巌の墓
写真表示 2022/09/29撮影

 島津家の墓からさらに上にある

    薩摩州島津氏歴代当主 初代 島津用久(1401~1459年)8代当主 島津久豊 次男  2代 島津国久(1442~1498年)  3代 島津成久(1464~1536年)  4代 島津忠興(1486~1525年)  5代 島津実久(1512~1553年)  6代 島津義虎(1536~1585年)  7代 島津忠辰(1565~1593年)  秀吉により薩摩守護を解任される。朝鮮にて病死

    島津氏歴代当主~藩主時代 18代 島津家久(1576~1638年)初代薩摩藩主(忠恒) 19代 島津光久(1616~1695年) 2代薩摩藩主 20代 島津綱貴(1650~1704年) 3代薩摩藩主    参勤交代の陸路を採用 21代 島津吉貴(1675~1747年) 4代薩摩藩主    霧島神宮の社殿を造営。 22代 島津継豊(1702~1760年) 5代薩摩藩主 23代 島津宗信(1728~1749年) 6代薩摩藩主 24代 島津重年(1729~1755年) 7代薩摩藩主 25代 島津重豪(1745~1833年) 8代薩摩藩主 26代 島津斉宣(1774~1841年) 9代薩摩藩主 27代 島津斉興(1791~1859年)10代薩摩藩主 28代 島津斉彬(1809~1858年)11代薩摩藩主    富国強兵・殖産興業 養女篤姫 29代 島津忠義(1840~1897年)12代薩摩藩主 30代 島津忠重(1886~1968年) 2代公爵 海軍少将 守護時代は別に記述


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 1587年3月秀吉は2万5,000余の大軍を率いて大坂城を出発し、小倉城に入城。  4月「日向根白坂の戦い」(宮崎県児湯郡木城町)の敗戦を受けて島津義久豊臣秀長(秀吉の異父弟)に謝罪。4月秀吉は海路より出水に入り、「薩摩平佐城の戦い」(鹿児島県薩摩川内市)に勝利し、川内の泰平寺たいへいじに入る。  5月島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立。秀吉義久を赦免し大隅を島津義弘に、日向の一部を島津久保(ひさやす義弘の次男)にあたえる。6月秀吉は筑前筥崎(はこざき福岡市東区)にて戦後の論功行賞をろんこうこうしょう加味して九州国分をくにわけ決定した。 別名「島津攻め」とも呼ばれるように島津にとっては最大の戦いであった。石塚家も参加したかもしれないが系図に記載がない。

6.関ヶ原の戦い  島津義弘は「関ヶ原の戦い」において本国の島津軍を動かす決定権は無く、援軍を得られず1,500の兵で参加した。1600年9月西軍総崩れの際に有名な「敵中突破」で薩摩に戻った。援軍を得られなかったのは「庄内の乱」も一因と言われる。  島津義久(16代)は西軍(石田三成側)への荷担は実弟の義弘が行ったもので、島津家の当主である自分はあずかり知らぬ事であったとして、徳川家康と講和交渉を開始する。この講和交渉は、2年に渡って行われた。最終的には家康はリスクの大きい島津討伐を断念し、所領安堵の起請文をきしょうもん渡した。征夷大将軍に就任したのはその翌年。 参考 「庄内の乱」は、日向国庄内(宮崎県都城市)みやこのじょうで「関ヶ原の戦い」直前で、島津氏が「関ヶ原の戦い」に大軍を送れなかった一因になった。  起請文は破らないことを神仏に誓う文書 参考 征夷大将軍は武士の最高位。関白は公家の最高位。関白の方が将軍よりも上位であるが、時代とともに将軍の権限が強くなって行く。江戸時代になると力関係が逆転した。

参考:島津義弘(Wikipedia) (p057)

7.島津氏の動き  この時代の島津氏の主な動きはまとめるとおよそ次のようになる。

1572年「木崎原の戦い」(義久は300人程度の戦力で10倍の人数の伊東軍を破ったと言われている)
1578年「耳川の戦い」。義久が豊後国の大友宗麟を破る。
1587年豊臣秀吉の九州平定軍に義久降伏。
1592年文禄の役(秀吉が明征服をめざして朝鮮に出兵)
1597年慶長の役(同上)
1598年朝鮮半島の泗川(しせん)で義弘が率いる島津軍2千が10万の明・朝鮮連合軍と戦って撃退。
1598年「庄内の乱」(御家騒動 家久が伊集院氏を討伐)
1600年「関ヶ原の戦い」。義弘の「敵中突破」
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8.肥後藩の動き加藤清正秀吉に仕えていて、「九州平定」後1589年に肥後に入り、1591年から城郭を築き始め、1600年頃には天守が完成。肥後一国52万石の領主となる。城は1606年に完成、翌年「隈本」を「熊本」と改名した。  秀吉の死後は家康に近づき、「関ヶ原の戦い」では東軍(家康側)として九州で攻防を繰り広げた。その功績から肥後の領地を与えられる。  清正、伊東祐兵*(飫肥藩初代)は島津家の内紛「庄内の乱」で物資の援助などを伊集院氏に行っている。 写真表示清正の三男として生まれた忠広は、二人の兄が早世したため、世子となる。1632年改易(切腹より軽い刑罰)の沙汰を受け追放される。次に肥後藩の領主となったのは細川忠利(2代小倉藩主・初代熊本藩主)である。  このような流れから義弘は北の守りを重要視した。

9.島原の乱島原の乱(1637~1638年)の薩摩藩総大将は出水地頭(島津家家老)山田有栄、軍勢 1,000人の記録がある。1637年10月獅子島に渡り、翌年正月天草に出陣、2月27日の原城(長崎県南島原市)総攻撃に出水衆も参戦している。祐玄17(石塚少左衛門尉)の時代であるが参加したかどうかは不明。

参考:島原の乱(Wikipedia) (p058)

Ⅴ-2 参考資料 軍役高帳  出水麓歴史館に「出水郷土史編集委員会」の作製した軍役高帳がある。この資料のおかげて系図にある江戸時代の諱をすべて照合することができた。以降系図の記載内容に軍役高帳の掲載ページを書き込んである。  軍役とは、主君に対する武家の諸負担義務のことで、基本的には知行(支給される領地、給地)を与えられることに対して軍事上の諸負担を果たすことを言う。石高は土地の生産力を米の量で表したもので石高に添った年貢を納める必要があった。  軍役高帳の2番と3番、5番は「薩州」とあるように、この頃までは出水麓にも薩州家の家臣がかなり残っているので人数も多い。薩州家の家臣で禄高の高い者を確認すると、3番5番では名前が見られない。他所に移動したと思われる。

   軍役高帳 写真表示

10冊が刊行されている。

 薩州出水衆中軍役高帳 2番(1612~1620年)
 薩州出水衆中軍役高帳 3番(1620~1628年)
 薩州出水衆中軍役高帳 5番(1637年)
 出水衆中軍役高帳 8番(1658年)
 出水麓士族軍役高帳 20番(1686~1689年)
 出水麓衆中軍役高帳 28番(1710年)
 出水麓士族軍役高帳 43番(1745年)
 出水麓士族軍役高帳 49番(1766年)
 出水麓士族軍役高帳 78番(1840年)
 出水麓士族軍役高帳 88番(1867~1870年)
 出水市教育委員会・郷土史研究委員会編
   薩州出水衆中軍役高帳3番(部分拡大) 写真表示

↑移動前の居住地が書いてある。薩州島津家の旧家臣も多く含まれている。 「軍役高帳の石塚姓」参照

    江戸時代年表 1603年 徳川家康が征夷大将軍に就任 1609年 島津家久(忠恒)が琉球王国に侵攻 1612年 禁教令(キリシタン信仰が禁止) 1614年 大坂冬の陣 1615年 大坂夏の陣(豊臣氏滅亡)     武家諸法度(幕府が大名を統制) 1616年 外国船の寄港を平戸と長崎に限定 1635年 日本人の海外渡航帰国を禁止 1637年 島原の乱 1639年 ポルトガル船の来航禁止 1641年 オランダ商館を出島に移す(鎖国が完成) 1651年 由比正雪の乱 1654年 利根川改流工事(太平洋に注ぐ) 1657年 明暦の大火 1669年 シャクシャインの戦い(アイヌ) 1680年 徳川綱吉五代将軍 1685年 生類憐みの令す 1702年 赤穂事件 1707年 富士山噴火(最後の噴火) 1716年 享保の改革(徳川吉宗) 1717年 大岡忠相江戸町奉行 1721年 目安箱設置 1722年 小石川薬園 1732年 享保の大飢饉 1735年 青木昆陽「蕃薯考」を著す 1772年 田沼意次、老中に就任 1774年 「解体新書」が刊行 1782年 天明の大飢饉 1783年 浅間山が噴火 1787年 寛政の改革 1797年 ロシア人が択捉島えとろふに上陸 1800年 伊能忠敬が蝦夷地を測量 1804年 ロシア使節通商を要求 1808年 間宮林蔵樺太を探査 1825年 異国船打払令 1833年 天保の大飢饉 1837年 大塩平八郎の乱 1839年 水野忠邦が老中首座に就任 1842年 異国船打払令の緩和 1853年 ペリーが浦賀に来航 1854年 日米和親条約締結 1858年 井伊直弼、大老に就任     日米修好通商条約締結     安政の大獄 1859年 吉田松陰ら処刑 1860年 桜田門外の変 1862年 生麦事件 1863年 薩英戦争 1864年 禁門の変、下関戦争 1866年 薩長同盟 1867年 大政奉還(十五代将軍 徳川慶喜)


Ⅴ-3 写真 17(江戸時代)[石塚]  徳川家康が将軍となり、江戸に幕府を開いたのは1603年。

写真表示 写真172022/07/18撮影

写真17記載内容

祐喜A17(すけよし)   助右衛門尉 石塚ト号ス 資料 出水麓士族軍役高帳3番(1620~1628年)31ページ  石塚助右衛門尉記載 資料 出水麓士族軍役高帳5番(1637年)23ページ  石塚助右衛門尉記載 ②女子  [父:祐喜A17]  肱黒市右衛門尉妻成 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)3>ペー> 嫡子 肱黒市右衛門記載 ③祐玄17(すけはる)   [父:丸尾勘右衛門尉平陣 猶父:祐喜17]  少左衛門尉  祐玄者丸尾勘右衛門尉平重陣之三男也祐喜依  無男子之為猶子石塚之也  号石塚  祐玄なる者は丸尾勘右衛門尉平重陣の三男なり  祐喜A17男子無しによりこれを請けて猶子となし石塚  の家を相続す。 資料 出水麓士族軍役高帳5番(1637年)7ページ  石塚少左衛門尉記載 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)13ページ  隠居 丸尾勘右衛門記載 ④祐類17(すけとも)   [父:祐玄17] 石塚弥市右エ門尉  此継圖本書紙朽リテ區  弥一右衛門尉祐類示新紙以申  作法論房祐田冩之

 祐類17はこの系図を筆写した人物  冩す=写す、區=区 区分 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)13ページ  石塚弥市右エ門記載 資料 出水衆中軍役高帳8番(1658)7ページ  石塚弥市右衛門記載 ⑤祐倚17(すけより)(にんべんに竒)   [父:祐玄17]  石塚竜兵衛尉 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)38ページ  石塚竜兵衛尉記載 資料 出水衆中軍役高帳8番(1658)23ページ  石塚龍兵衛記載 ⑥女子  [父:祐玄17]  川﨑久右衛門尉成妻 ⑦祐員17  [父:祐玄17]  祐員者祐玄之四男子也遠屋藤七左エ門尉依世子  請之為嫡子仍相続遠屋之家也 資料 出水衆中軍役高帳8番(1658)38ページ  遠屋藤七左エ門尉記載 ⑧女子  [父:祐類17]  壱岐助之進成妻

   島津義弘公 JR伊集院駅
写真表示 22022/10/29撮影

 位牌は日置市の妙円寺にある。また、隣接する徳重神社に祭られている。  以前は鹿児島市の小中高校の多くは学校行事として徒歩で「妙円寺詣り」を実施していたが、交通量の増加で中止になった。


Ⅴ-4 写真 18(江戸時代)[石塚]

写真表示 写真182022/07/18撮影

写真18記載内容

祐永B18  [父:祐倚17] 石塚少兵衛尉 資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)15ページ  嫡子 石塚少兵衛記載 ②祐里18  [父:祐倚17] 勘右衛門尉 ③女子  [父:祐類17] 松永孫右衛門尉成妻 ④祐憲B18  [父:祐類17 長男]  石塚少右衛門尉  母は田中次郎兵衛の女  資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)13ページ  嫡子 少右衛門尉記載 資料 出水麓衆中軍役高帳28番(1710年)11ページ  石塚少右衛門記載 資料 出水麓士族軍役高帳28番(1710年)22ページ  田中次郎兵衛記載 ⑤親由18  [父:祐類17 三男] 溝口長右エ門尉  親由者祐類之三男子也 溝口類右エ門尉倚無世子  以三男猶子 相溝口之家 三男親由18は溝口類右エ門尉の猶子となる。 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)37ページ  溝口長右エ門記載 ⑥重宅18  [父:祐類17 四男] 弥兵衛尉  重宅者祐類之四男子也 丸尾四郎右エ門平重長  依無世子又甥之以弥兵衛尉猶子続  丸尾家 丸尾四郎右エ門の甥弥兵衛尉(重宅18)が丸尾家相続  祐憲B18と親由の間に次男の記載なし

資料 出水麓衆中軍役高帳3番(1620~1628年)19ページ  丸尾四郎右エ門記載 ⑦女子  [父:祐憲B18] 出水士房村幸之助為妻  母は出水士壱岐兵左エ門尉妹  資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)15ページ  壱岐兵左エ門記載 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766)11ページ  壱岐兵左エ門記載 資料 出水麓士族軍役高帳28番(1710)5ページ  嫡子房村幸之助記載

参考 出水麓は藩内各地から移動してきた武士の集落である。麓以外の十ケ外城にも押さえとして移動してきた武士がいた。  1599年に出水初代地頭として本田正親が配された後、約30年かけて1629年に赴任した三代地頭の山田有栄の時代まで整備が続けられた。  この時代は18代島津忠恒(家久)の時代である。忠恒は1602年家康に謝罪のため上洛し、本領を安堵された。薩摩に入り家督を継いだが、実権は元和5年(1619年)までは父義弘に握られていた。1638年病死  義弘は出水で隠居して藩の国境の守りに就こうと、帖佐(姶良市)の居城から門を移築(現出水小学校正門)させたように、出水を重要な拠点と考えていた。また、山田有栄義弘の家臣である。 参考:薩州出水衆中軍役高帳2番(1612年) 参考 出水麓集落への移動は慶長(1596~1615)から玄和(1615~1624)まで行われた。これは山田有栄の赴任(1629年)前である。軍役高帳で言えば一番から五番だと考えられる。一番は残っておらず二番には移動元が記載されていない。三番にはその時の移動について記載してあるがそれまでの移動の記載がないのが残念である。 十ケ外城(出水麓以外の郷)

・大川内 出水市大川内 国道447大口方面
・軸谷 出水市上鯖渕萩之段
・平松 出水市下鯖町平松
・米ノ津 現出水市米ノ津町。出水市の北北西。漁港
・今釜 現出水市今釜町。米ノ津の西
・福之江 現出水市福ノ江町。今釜町の西側。福之江の海岸は潮干狩りができる。
・荘 出水市荘荒崎。旧海岸線の南側。荒崎干拓地は鶴の渡来地
〇野田 鹿児島県出水市野田町上名
〇西目 鹿児島県阿久根市栄
〇長島 鹿児島県出水郡長島町鷹巣

 後に野田と長島が独立して八ケ郷となる。   〇は地頭屋敷のあった外城   1744年以降外城は郷と呼ぶようになった。 「地図 薩摩の街道筋・外城配置」参照


Ⅴ-5 写真 19(江戸時代)[石塚]

写真表示 写真192022/07/18撮影

写真19記載内容

女子  [父:祐憲B18 母:壱岐兵左エ門尉妹]  同所士森田次助為妻 資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)61ページ   森田次助記載 ②祐清C19  [父:祐憲B18] 弥七兵衛  元禄十二巳卯年つちのとう(1699)誕生  安永八巳亥年つちのとい(1779)十二月二十六日死 年八十一  出水浄圓寺法名 ほうみょう一譽遊心居士 資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)23ページ  石塚弥七兵衛記載 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)20ページ  石塚弥七兵衛記載  明照山淨圓寺(浄土宗)  鹿児島県出水市向江町25-3 ③A19  [父:祐憲B18]  弥八郎兵右衛門  出水壱岐兵衛門為養子祐祥19  [父:祐清C19] 母:丸尾弥兵衛女   享保十一丙午年ひのえうま(1726)三月二日誕生  寛政十己未年つちのとひつじ(1798)七月十八日死 年七十四  周助 周右衛門  出水浄圓寺 法名 孝譽勇忠居士 資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)23ページ  嫡子石塚周助記載 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)20ページ  石塚周右衛門記載

資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)35ページ  丸尾弥兵衛記載 ⑤祐德19(すけのり)   [父:祐祥19] 母:宇佐法輪院女  寳暦四年甲戌(17きのえいぬ54)十月十六日誕生  文政八年とり(1825)十月二十六日死 七十二  助右衛門 林左衛門  出水浄圓寺 法名 仙公羽善心居士 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)20ページ  石塚助右衛門記載 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)27ページ  宇佐法輪院記載

九州地方の大名配置図 1630年 参考・改変:https://twitter.com/rikiichi_ojisan 写真表示

Ⅴ-6 写真 20(江戸時代)[石塚]

写真表示 写真202022/07/18撮影

写真20記載内容

B20  [父:祐德19 長男] 母:田島藤右衛門女  安永九庚子かのえね年(1780)月朔日ついたち生  天明八戊申年(つちのえさる1788)九月二十三日死  孫太郎 年九ツほうむる浄圓寺法名 ほうみょう常照智光居士 ②祐壽20(すけなか)   [父:祐德19 次男] 母:田島藤右衛門女  新助雲節  天明七丁未年ひのとひつじ(1787)八月十日誕生  文化八未年ひつじ(1811)九月廿一(21)日死 年二拾五(25)  葬浄圓寺 法名 法雲 月居士 ③祐富20  [父:祐德19 三男] 母:田島藤右衛門女  寛政五癸巳年みずのとみ(1793)三月廿二日(22)誕生  ■周右衛門 弥市右エ門  文政七さる年(1824)五月 家督相続 B20祐壽20が早世のため三男が相続。 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)20ページ  嫡子石塚周右衛門記載 資料 出水麓士族軍役高帳78番(1840年)58ページ  石塚周右衛門記載 ④C20  [父:祐永B17] 石塚龍右衛門と号す 幼名 庄八 資料 出水麓士族軍役高帳43番(1745)61ページ

石塚龍右衛門 嫡子周次郎記載  龍右衛門巳六月相果候ニ付、除  嫡子周次郎ヘ継目之願申上、巳月御免被仰付候  周次郎は1768年島津重豪の参勤交代に御供した。 ⑤祐清D20  [父:祐永B17]  石塚龍兵衛 初メ三右エ門 資料 出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)103ペー  ジ  石塚龍兵衛嫡子石塚勘左衛門記載  石塚勘左衛門辰十月相果候ニ付除 資料 出水麓士族軍役高帳49番(1766年)87ページ  石塚竜兵衛記載

    明治時代年表 1868年 戊辰戦争 明治と改元 五箇条のご誓文 1869年 版籍奉還 1871年 廃藩置県 1872年 太陽暦の採用 1874年 民選議員設立の建白書 台湾出兵 1875年 ロシアと千島樺太交換条約 1876年 朝鮮と日朝修好条規 1877年 西南戦争 1878年 大久保利通暗殺 1881年 板垣退助が自由党を結成 1882年 大隈重信が立憲改進党を結成 1885年 天津条約締結 第一次伊藤博文内閣発足 1888年 メキシコと平等条約調印 1889年 大日本帝国憲法発布 1890年 第一回衆議院議員選挙 1894年 日清戦争 1895年 下関条約調印 三国干渉(遼東半島返還) 1898年 朝鮮半島の主権を日露両国確認する 1899年 日英通商航海条約発効(不平等条約改正) 1902年 日英同盟締結 1904年 日露戦争 1905年 日露戦争終結 第二次日英同盟     ポーツマス条約締結 1906年 韓国統監府開庁     米英、満州の門戸開放を日本に要請     ロシアから南樺太を受領 1907年 ハーグ密使事件 1908年 ロシアと樺太境界に関する協定 1909年 伊藤博文暗殺 1910年 韓国併合 1911年 関税自主権の回復 第三次日英同盟 1912年 明治天皇崩御


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