Ⅵ-1 戸籍について ここからの写真は出水市役所から得た戸籍謄本である。 それ以前の藩などの戸籍は永久に凍結されていて残念ながら閲覧禁止である。 菩提寺である出水浄圓寺の墓地は1950年代に道路の拡張でなくなってしまい、今は納骨堂なので、墓石で確認することはできない。
Ⅵ-2 写真 21(江戸~明治) [佳兵衛 祐賢 萬之助 實人 佐命]
Ⅵ-4 考察 西南戦争(明治時代) 西南戦争は明治10年(1877)1月29日~9月24日。日本国内で最後の内戦。
祐賢21の長男實人21の誕生(1884年生)は西南戦争の7年後、次男佐命21(1889年生)は12年後である。
1. 西郷軍の動き(時系列) ① 熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上する策を取る。 ② 熊本城の攻略。 ③ 田原坂にて敗れる。 ④ 熊本城の攻略に失敗。 ⑤ 南下して人吉地方を拠点として、熊本・鹿児島・宮崎・大分と戦線を拡大。 ⑥ 鹿児島に政府海軍が上陸。 ⑦ 人吉は破られ、撤退した宮崎の都城でも敗北。 ⑧ 大分の延岡方面に移動。 ⑨ 和田越(延岡市)の決戦に敗れる。 ⑩ 西郷隆盛は解軍の令を出す。多くの兵が降伏し、残ったのは少数精鋭の約1,000人。 ⑪ 少数精鋭の機動力を活かし、鹿児島へ戻る。 ⑫ 城山を包囲する政府軍が攻撃。城山籠城戦薩軍は350余名。 ⑬ 西郷隆盛は被弾し自害。 西南戦争による官軍死者は6,403人(動員数は推定6万人)、西郷軍死者は6,765人(動員数は推定5万人)。
2. 明治政府軍 有栖川宮熾仁親王(指揮官) 大日本帝国陸軍 中将 山県有朋(長州) 大日本帝国海軍 中将 川村純義(薩摩) 衝背軍 別働第二旅団(第一旅団に改称) 参軍 黒田清隆(薩摩) 司令長官 高島鞆之助(薩摩) 警視隊 別働第三旅団長 大警視 陸軍少将 川路利良(薩摩) 警視隊から剣術に秀でた者が選抜され抜刀隊が編成された。 熊熊本鎮台司令長官 谷干城(土佐) 攻城砲隊司令官 大山巌(薩摩) 中津山藩士族(陸奥国 川崎伊達家) 注 抜刀隊は田原坂において西郷軍による斬り込み攻撃に対応するために、警視隊から士族を選んで組織された。
3. 西郷軍 西郷隆盛(指揮官) 薩摩藩士族 熊本藩士族 諸県郡士族(宮崎県) 福岡藩士族 中津藩士族(大分県)
参考:▶西南戦争(Wikipedia) (p060) |
4. 出水郷の動き 西南戦争は薩摩藩士全員が賛同したわけではない。かなりの数の薩摩出身の者が東京に在住して活躍しており、その親も薩摩にいた。明治3年頃の薩摩の合計人口77万2354人の内、士族が19万2949人との記録がある。このうち子供と年寄りと女性を除いた実働数を25%とすればおよそ4万8000人なる。西南戦争の動員数は薩摩軍推定約5万、政府軍約6万人で、薩摩軍は他藩からも参加しているので、実働数の80%ほどが参加したと思われる。 出水も金銭的な援助はしたが、麓の有力な郷士は積極的に参加せにはず、次男・三男等を出軍させることによって、一応参加と言う大義名分を確保し、西郷に対する忠義より家の存続を望んだ。また、政府軍には多くの薩摩藩出身者がいた。 力のある郷士は西南戦争に対して大義名分が無いとか将来の展望が見えないとかの判断が出来るので、そういった郷士の多い郷は西南戦争に消極的だったと言える。 薩摩藩では、もともと城下町の士族(城下士)と、半農士族である郷士とは身分の差が大きく、封建的な階級対立もあったと思われる。明治6(1873)年の地租改正の後、城下士の没落に対して、郷士は土地があり生活に困窮することはなかっであろう。半農藩士の生活が役に立ったと言える。 西南戦争に参加したのは鹿児島市の私学校関係者が多かった。田原坂西南役戦没者慰霊之碑によると、名前の判明している分は薩摩軍鹿児島県分死者数5,260人、内鹿児島市1,372人(26%)、出水郡出水109人(2.1%)で、出水の参加者は少なかったと考える。 西郷軍は田原坂や熊本城攻防に敗れ人吉に後退した。官軍は西郷軍の退路を断つために別動隊が出水・大口の制圧にも動いた。このとき出水の守りである麓士族も防衛の為に参加した。
特に激戦となったのは矢筈山であった。やがて矢筈山を破られ、広瀬川(出水市米ノ津川)を越えられ、出水麓も官軍に攻め込まれた。出水防衛のために人吉から帰ってきて出水士族を率いて戦った伊藤四郎左衛門(祐徳)は、もともとこの戦いが無益だと思っていたので、紫尾山系まで退いたあとあっさりと降伏した。 祐賢21がどこで負傷したかは不明であるが、西郷軍に従軍したのでは無く、出水の防衛で負傷したと考えるのが自然である。一度弟の萬之助21に家督を譲っている。この時期は記録にないが、祐賢21は大怪我を負ったので家督を譲ったと考える。祐賢21は、戦後かなりの間寝たきりだったと聞く。刀傷があったとことも叔母(智23)から聞いている。後に回復し、7年後に長男実人21が、さらにその5年後に次男佐命21が誕生し、大正15年(1926)に84歳で没した。萬之助21は1886年(西南戦争の9年後)に戸主を辞している。
参考:出水麓のつわぶきのあしあと 出水麓街なみ保存会 |
参考: ▶薩摩藩出水郷士の研究 兵庫教育大学 藤井徳行 |
民謡「田原坂」の歌詞に「馬上ゆたかな美少年」とあるが、田原坂では鉄砲隊、斬り込み攻撃など歩兵中心で、馬上での戦いは疑問視される。ただし、伝令として若武者が戦場を駆け抜けたということは伝わっている。
西南役戦没者慰霊之碑の出水郡出水の中に阿多、川俣、宮地、肱黒、黒木、丸尾、税所、川添、遠竹など麓集落の姓がみられる。また、鹿児島市の中に石塚猪之助ほか2人の石塚姓がある。
5. 田原坂公園 田原坂は西南戦争最大の激戦地。官軍約1,700人(官軍死者数の26%)、薩軍1,100人(薩軍死者数の16%)が戦死。
戦死者 | 続柄 | 禄 高 | ページ |
麻生 善兵エ | 甥 | 七斗五升 | 51 |
阿多 弥八郎 | 次男 | 四拾三石六斗 | 1 |
伊福 恕吉郎 | 長男 | 拾三石二斗 | 5 |
柿田 十五郎 | 当主 | 二石五斗 | 52 |
柏木 弥太郎 | 次男 | 四石五斗 | 82 |
勝下 武右衛門 | 長男 | 九石三斗 | 41 |
川内 惣之丞 | 当主 | 壱石弐斗 | 22 |
川﨑 休之助 | 長男 | 壱石七升 | 33 |
川添 盛助 | 長男 | 九石壱斗 | 37 |
川俣 次郎兵エ | 養子 | 四石弐斗 | 94 |
戦死者 | 続柄 | 禄 高 | ページ |
隈本 甚五郎 | 長男 | 八石六斗 | 54 |
黒木 彦七 | 次男 | 五石壱斗 | 5 |
富山 源五衛門 | 当主 | 弐拾八石 | 16 |
長野 仲之進 | 当主 | 八斗八升無屋敷 | 87 |
平原 正次郎 | 次男 | 五石三升 | 52 |
松永 喜右衛門 | 叔父 | 六升壱号 | 80 |
宮路 十太郎 | 長男 | 拾三石八合 | 44 |
宮路 次兵衛 | 長男 | 拾七石五斗 | 6 |
山口 平太郎 | 長男 | 三拾弐石壱斗 | 73 |
渡辺 八五郎 | 長男 | 七石六斗 | 92 |
3. 田原坂公園崇烈碑 政府軍指揮官栖川宮熾仁親王が建立された碑である。 「薩軍が南関を破り北方に進出すれば、政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったであろう。そのような状態に至らなったのは田原坂の勝利による。 多くの死者をだしたが、死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。 そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。」といった主旨で建立された。
崇烈碑 鹿児島県は西海に於いて地最も広く、人最も勇なり。而して西郷隆盛名望世を蓋ふ。海内の人士其の進退を候し、以て安危と為すに至る。 明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒、兵を発して之れを討つ。熾仁総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道を扼し、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉を抜く。賊退いて田原坂の険に拠る。而して熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。夫れ田原の地たる両崖壁立経路崎嶇たり。賊悉く精鋭にして堅塁を築き、咆哮出没虎狼の如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。苟もこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。而して其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷に由る。嗚呼死者の功大なり。而して焉見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上に建て、似って之れを記す。蓋し忠烈を勧奨する所以なり。
明治十三年十月 |
陸軍大将二品大勲位 熾仁親王 撰文竝篆額 |
※ 二品:一品から四品まである親王の位階 |
熾仁親王:栖川宮熾仁親王 |
篆額:石碑上部の篆書(秦代の標準書体)の題字 |
撰文:文章を作ること。 |
Ⅵ-5 戊辰戦争 西南戦争に先立つ1868年1月、大政奉還(1867年11月9日)後の徳川慶喜への処遇に不満の旧幕府軍(旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・幕府陸軍・幕府海軍)が新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩が中核)と京都で衝突。 「鳥羽・伏見の戦い」に始まる「戊辰戦争」は1年半に及んだ。 旧幕府軍の最高指揮官徳川慶喜が大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった。 「鳥羽・伏見の戦い」には出水郷からは外城四番隊としておよそ100人が参加し、薩摩最強軍団と評価されている。このときの恩賞は城下士に手厚く郷士は冷遇された。このことが尾を引き西南戦争に消極的であった理由の一つと考えられる。 江戸時代初期には城下士と外城士の間には階級対立は無く、城下士と外城士の間で養子縁組もみられたが、江戸中期ごろから階級対立がみられるようになったようである。これは外城士が郷士と呼ばれるようになった時期かもしれない。 なお、この戦いに祐賢21は動員されていない。 鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷は征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王に錦の御旗と節刀(任命の印としての刀)を与えた。 官軍(新政府)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。錦の御旗を知らしめただけで前線の旧幕府兵達が青ざめて退却する場面が目撃されている。
参考:出水麓のつわぶきのあしあと 出水麓街なみ保存会 |
参考:▶薩摩藩出水郷士の研究(西南戦争中心) p061 |