幕末~明治

Ⅵ-1 戸籍について  ここからの写真は出水市役所から得た戸籍謄本である。  それ以前の藩などの戸籍は永久に凍結されていて残念ながら閲覧禁止である。  菩提寺である出水浄圓寺の墓地は1950年代に道路の拡張でなくなってしまい、今は納骨堂なので、墓石で確認することはできない。

Ⅵ-2 写真 21(江戸~明治) [佳兵衛 祐賢 萬之助 實人 佐命]

写真表示 写真212022/07/18撮影
写真21記載内容
佳兵衛21
 [父:祐富20]
資料 出水麓士族軍役高帳78番(1840年)58ページ
石塚佳兵衛記載
資料 出水麓士族軍役高帳88番(1867~1870)66ページ
石塚佳兵衛記載
 佳兵衛21は、伊藤四郎左衛門(祐徳)とともに黒船来
 航時の江戸の警備に上京。(1854年正月~1855年9月)
考察 祐富20は1824年に家督を相続。祐賢21は1844年
 誕生なので、この間は佳兵衛21一人と判断する。
祐賢21(ゆうけん) 江~明~大
 弘化元(1844)年8月15日生
 大正15(1926)年2月5日没 法名 松壽院高雅祐賢居士
 [父:佳兵衛21 長男]
 明治19年(1886)10月27日再相続
 大正15(1926)年2月15日石塚実人家督相続
マツ21
 祐賢21
 嘉永4(1851)年12月2日生
 1912年11月24日没 63歳 法名 當願妙浄大姉
萬之助21
 [父:佳兵衛21 次男]
 明治19年(1886)10月27日 戸主を辞す
 明治25(1892)年12月 8日 鹿児島県出水郡出水村武
 本石塚祐成B*死亡後相続人となる。
資料 出水麓士族軍役高帳88番(1867~1870)66ページ
次男石塚萬之助記載
實人21(さねと) 明~大~昭
 [父:祐賢21 長男]
 明治17(1884)年 8月 2日生
 昭和22(1947)年 5月07日没(64歳)
法名 ほうみょう松樹院窓月蒙光居士 ↗ 
 西南戦争の7年後に誕生
佐命21(すけのり) 明~大~昭
 明治22(1889)年10月生
 伊佐郡山野村 緒方小彌太 妻タツ 養子縁組
 [父:祐賢21 次男]

祐賢21西南戦争(1877)のときに次男萬之助21に家督を譲っている。このとき長男実人21はまだ生まれていない。
 西南戦争  1877年2月15日~9月24日
 石塚実人21  1884年生
 石塚萬之助21 1886年10月27日戸主を辞す
 石塚祐賢21  1886年10月27日家督再相続
 石塚萬之助21 1892年石塚祐成B*死亡後相続人となる
 石塚祐賢21  1926年没
 石塚実人21  1926年家督相続
 石塚実人21の誕生の2年後に祐賢21が家督を再相続。
  出水箱崎八幡神社石灯籠
写真表示 2022/09/29撮影
↑出水郷士21人を含む百余名が黒船来航時の江戸警備に派遣され、無事に帰郷したお礼に1855年奉納した。
写真表示 2022/09/29撮影
↑入口左側の石灯籠に「石塚佳兵衛21」の名がある

Ⅵ-4 考察 西南戦争(明治時代)  西南戦争は明治10年(1877)1月29日~9月24日。日本国内で最後の内戦。

祐賢21の長男實人21の誕生(1884年生)は西南戦争の7年後、次男佐命21(1889年生)は12年後である。

1. 西郷軍の動き(時系列)  ① 熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上する策を取る。  ② 熊本城の攻略。  ③ 田原坂にて敗れる。  ④ 熊本城の攻略に失敗。  ⑤ 南下して人吉地方を拠点として、熊本・鹿児島・宮崎・大分と戦線を拡大。  ⑥ 鹿児島に政府海軍が上陸。  ⑦ 人吉は破られ、撤退した宮崎の都城でも敗北。  ⑧ 大分の延岡方面に移動。  ⑨ 和田越(延岡市)の決戦に敗れる。  ⑩ 西郷隆盛は解軍の令を出す。多くの兵が降伏し、残ったのは少数精鋭の約1,000人。  ⑪ 少数精鋭の機動力を活かし、鹿児島へ戻る。  ⑫ 城山を包囲する政府軍が攻撃。城山籠城戦薩軍は350余名。  ⑬ 西郷隆盛は被弾し自害。  西南戦争による官軍死者は6,403人(動員数は推定6万人)、西郷軍死者は6,765人(動員数は推定5万人)。

2. 明治政府軍有栖川宮熾仁たるひと親王(指揮官)  大日本帝国陸軍 中将 山県有朋(長州)  大日本帝国海軍 中将 川村純義(薩摩)  衝背軍 別働第二旅団(第一旅団に改称) 参軍 黒田清隆(薩摩) 司令長官 高島鞆之助(薩摩)  警視隊 別働第三旅団長 大警視 陸軍少将 川路利良(薩摩)  警視隊から剣術に秀でた者が選抜され抜刀隊が編成された。  熊熊本鎮台司令長官 谷干城(土佐)  攻城砲隊司令官 大山巌(薩摩)  中津山藩士族(陸奥国 川崎伊達家)  抜刀隊は田原坂において西郷軍による斬り込み攻撃に対応するために、警視隊から士族を選んで組織された。

3. 西郷軍西郷隆盛(指揮官)  薩摩藩士族  熊本藩士族  諸県郡士族(宮崎県)  福岡藩士族  中津藩士族(大分県)

参考:西南戦争(Wikipedia) (p060)

4. 出水郷の動き  西南戦争は薩摩藩士全員が賛同したわけではない。かなりの数の薩摩出身の者が東京に在住して活躍しており、その親も薩摩にいた。明治3年頃の薩摩の合計人口77万2354人の内、士族が19万2949人との記録がある。このうち子供と年寄りと女性を除いた実働数を25%とすればおよそ4万8000人なる。西南戦争の動員数は薩摩軍推定約5万、政府軍約6万人で、薩摩軍は他藩からも参加しているので、実働数の80%ほどが参加したと思われる。  出水も金銭的な援助はしたが、麓の有力な郷士は積極的に参加せにはず、次男・三男等を出軍させることによって、一応参加と言う大義名分を確保し、西郷に対する忠義より家の存続を望んだ。また、政府軍には多くの薩摩藩出身者がいた。  力のある郷士は西南戦争に対して大義名分が無いとか将来の展望が見えないとかの判断が出来るので、そういった郷士の多い郷は西南戦争に消極的だったと言える。  薩摩藩では、もともと城下町の士族(城下士)と、半農士族である郷士とは身分の差が大きく、封建的な階級対立もあったと思われる。明治6(1873)年の地租改正の後、城下士の没落に対して、郷士は土地があり生活に困窮することはなかっであろう。半農藩士の生活が役に立ったと言える。  西南戦争に参加したのは鹿児島市の私学校関係者が多かった。田原坂西南役戦没者慰霊之碑によると、名前の判明している分は薩摩軍鹿児島県分死者数5,260人、内鹿児島市1,372人(26%)、出水郡出水109人(2.1%)で、出水の参加者は少なかったと考える。  西郷軍は田原坂や熊本城攻防に敗れ人吉に後退した。官軍は西郷軍の退路を断つために別動隊が出水・大口の制圧にも動いた。このとき出水の守りである麓士族も防衛の為に参加した。

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 特に激戦となったのは矢筈山であった。やがて矢筈山を破られ、広瀬川(出水市米ノ津川)を越えられ、出水麓も官軍に攻め込まれた。出水防衛のために人吉から帰ってきて出水士族を率いて戦った伊藤四郎左衛門(祐徳)は、もともとこの戦いが無益だと思っていたので、紫尾山系まで退いたあとあっさりと降伏した。  祐賢21がどこで負傷したかは不明であるが、西郷軍に従軍したのでは無く、出水の防衛で負傷したと考えるのが自然である。一度弟の萬之助21に家督を譲っている。この時期は記録にないが、祐賢21は大怪我を負ったので家督を譲ったと考える。祐賢21は、戦後かなりの間寝たきりだったと聞く。刀傷があったとことも叔母(智23)から聞いている。後に回復し、7年後に長男実人21が、さらにその5年後に次男佐命21が誕生し、大正15年(1926)に84歳で没した。萬之助21は1886年(西南戦争の9年後)に戸主を辞している。

参考:出水麓のつわぶきのあしあと 出水麓街なみ保存会
参考: 薩摩藩出水郷士の研究 兵庫教育大学 藤井徳行

 民謡「田原坂」の歌詞に「馬上ゆたかな美少年」とあるが、田原坂では鉄砲隊、斬り込み攻撃など歩兵中心で、馬上での戦いは疑問視される。ただし、伝令として若武者が戦場を駆け抜けたということは伝わっている。
 西南役戦没者慰霊之碑の出水郡出水の中に阿多、川俣、宮地、肱黒、黒木、丸尾、税所、川添、遠竹など麓集落の姓がみられる。また、鹿児島市の中に石塚猪之助ほか2人の石塚姓がある。

 私学校は西郷隆盛が征韓論争に敗れ下野したのち、1874年鹿児島に創立した士族中心の学校。不平士族の暴発を抑えるための教育機関として発足したが、後に、私学校生徒の暴発により西南戦争の直接的原因をつくり、西郷軍の軍事拠点となった。(場所:鹿児島市城山町 現鹿児島医療センター敷地)

5. 田原坂公園  田原坂は西南戦争最大の激戦地。官軍約1,700人(官軍死者数の26%)、薩軍1,100人(薩軍死者数の16%)が戦死。

   田原坂3D画像 標高差79.0m
写真表示 Google Earth
   三の坂
写真表示 2022/10/16撮影

   西南役戦没者慰霊之碑(西南戦争全体の死者)
写真表示 2022/10/16撮影

判明した両軍の戦没者合わせて約14,000人のすべての名前が書いてある。写真は出水郡出水の戦没者。109人

   美少年像と熊本民謡「田原坂」の歌詞
写真表示 2022/10/16撮影

「雨は降る降る陣羽は濡れる 越すに越されぬ田原坂
   右手に血刀左手に手綱 馬上ゆたかな美少年」


   大砲(口径10cmほど)
写真表示 2022/10/16撮影
参考山田昌巌については郷土の偉人として出水小学校で学んだ記憶があるが西郷隆盛については記憶に無い。鹿児島市に転校した後に学んだのは記憶している。出水では西郷隆盛はほとんど評価されていないようである。むしろ西郷軍による略奪などの言い伝えのある地区もある。
参考 薩摩軍推定約5万、政府軍約6万人が動員された。両軍ともおよそ1割の人々か亡くなっている。
考察 士族中心の薩摩軍が近代的な装備の平民中心の政府軍に敗れたことは武士の時代の終焉を意味している。

 西南役戦没者慰霊之碑の出水郷出水の戦死者109人と出水麓士族軍役高帳88番(1867~1870年)を比較してみた。軍役高帳は西南戦争の7年前に作製されている。幾人か見つかったので次に示す。参加者ではなく戦死者名だがある程度の傾向は分かる。禄高から見て分家筋が多い。また、麓以外が多かったと思われる。
  戦死者続柄禄  高ページ
 麻生 善兵エ七斗五升 51
 阿多 弥八郎次男四拾三石六斗  1
 伊福 恕吉郎長男拾三石二斗  5
 柿田 十五郎当主二石五斗 52
 柏木 弥太郎次男四石五斗 82
 勝下 武右衛門長男九石三斗 41
 川内 惣之丞当主壱石弐斗 22
 川﨑 休之助長男壱石七升 33
 川添 盛助長男九石壱斗 37
 川俣 次郎兵エ養子四石弐斗 94
  戦死者続柄禄  高ページ
 隈本 甚五郎長男八石六斗 54
 黒木 彦七次男五石壱斗  5
 富山 源五衛門当主弐拾八石 16
 長野 仲之進当主八斗八升無屋敷 87
 平原 正次郎次男五石三升 52
 松永 喜右衛門叔父六升壱号 80
 宮路 十太郎長男拾三石八合 44
 宮路 次兵衛長男拾七石五斗  6
 山口 平太郎長男三拾弐石壱斗 73
 渡辺 八五郎長男七石六斗 92

3. 田原坂公園崇烈碑  政府軍指揮官栖川宮ありすがわのみや熾仁たるひと親王が建立された碑である。  「薩軍が南関を破り北方に進出すれば、政府に不満を持った者たちが必ず隙をみて立ち上がり、禍は測り知れなかったであろう。そのような状態に至らなったのは田原坂の勝利による。  多くの死者をだしたが、死者の功績は大きく、そのままにしておけない痛ましいことである。  そこで碑を田原坂の坂上に建て、このことを記し、忠烈な戦いを顕彰するものである。」といった主旨で建立された。

写真表示 2022/10/16撮影
写真表示 2022/10/16撮影

 田原坂 崇烈碑 案内板


崇烈碑すうれつひ  鹿児島県は西海さいかいに於いて地最も広く、人最も勇なり。しこうして西郷隆盛名望めいぼう世をおおふ。海内かいだい人士じんし其の進退を候し、以て安危あんきと為すに至る。  明治十年二月隆盛反し熊本城を囲む。天皇震怒しんど、兵を発して之れを討つ。熾仁たるひと総督の責に任ず。陸軍中将山県有朋、海軍中将川村純義参軍たり。賊は兵を分ち、植木山鹿の両道をやくし、進んで高瀬に入る。二十七日我軍高瀬を撃ちて取る。越えて四日木葉このはを抜く。賊退いて田原坂の険にる。しこうして熊本の囲み益々密にして援路皆断つ。れ田原の地たる両崖りょうがい壁立経路崎嶇きくたり。賊ことごとくく精鋭にして堅塁けんるいを築き、咆哮出没虎狼ころうの如く有り。要害形を異にし、攻守勢を殊にす。而して我が軍殊に死戦昼夜をすてず十有七日遂に之れを抜く。死傷四千余人、この役たるや鏖戦おうせん前後数百、而して未だ田原坂の如き劇あらざるなり。いやしくもこの坂にして抜けず、賊をして南関を破り北せしめば、四方不逞の徒必ず隙に乗じて起ち、禍ひ測るべからず。しこうして其れを此に至ら使めず、遂に速やかに討滅に致らしむるものは実に此の一捷に由る。嗚呼ああ死者の功大なり。而していずくんぞ見るに及ばず、痛ましい哉。因って碑を阪上に建て、似って之れを記す。けだ忠烈ちゅうれつ勧奨かんしょうする所以ゆえんなり。

明治十三年十月
陸軍大将二品にほん大勲位 熾仁たるひと親王 撰文ならびに篆額てんがく
※ 二品:一品から四品まである親王の位階
  熾仁親王:栖川宮ありすがわのみや熾仁親王
  篆額てんがく:石碑上部の篆書(秦代の標準書体)の題字
  撰文せんぶん:文章を作ること。

Ⅵ-5 戊辰戦争  西南戦争に先立つ1868年1月、大政奉還(1867年11月9日)後の徳川慶喜よしのぶへの処遇に不満の旧幕府軍(旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・幕府陸軍・幕府海軍)が新政府軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩が中核)と京都で衝突。 「鳥羽・伏見の戦い」に始まる「戊辰ぼしん戦争」は1年半に及んだ。 旧幕府軍の最高指揮官徳川慶喜が大阪城を抜け、軍艦で江戸に向かったことで、旧幕府軍は総崩れとなった。 「鳥羽・伏見の戦い」には出水郷からは外城四番隊としておよそ100人が参加し、薩摩最強軍団と評価されている。このときの恩賞は城下士に手厚く郷士は冷遇された。このことが尾を引き西南戦争に消極的であった理由の一つと考えられる。  江戸時代初期には城下士と外城士の間には階級対立は無く、城下士と外城士の間で養子縁組もみられたが、江戸中期ごろから階級対立がみられるようになったようである。これは外城士が郷士と呼ばれるようになった時期かもしれない。  なお、この戦いに祐賢21は動員されていない。  鳥羽・伏見の戦いが始まると、朝廷は征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王に錦の御旗と節刀(任命の印としての刀)を与えた。  官軍(新政府)の証である錦旗の存在は士気を大いに鼓舞すると共に、賊軍の立場とされてしまった旧幕府側に非常に大きな打撃を与えた。錦の御旗を知らしめただけで前線の旧幕府兵達が青ざめて退却する場面が目撃されている。

参考:出水麓のつわぶきのあしあと 出水麓街なみ保存会
参考:薩摩藩出水郷士の研究(西南戦争中心) p061

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