資料1

Ⅶ-1 石塚姓について

1.名字の由来  石塚姓の起源は全国に三カ所ある。これはいずれも領地を姓にした武士の家系である。 ⑴ 現茨城県の常陸国茨城郡石塚が起源。清和天皇(850~881年)の子孫で「源」姓を賜った清和源氏の子孫。清和源氏佐竹氏の一族で第9代義篤の三男・石塚宗義がはじめて石塚姓を名乗り石塚城を築いた。  現在の地名:茨城県東茨城郡城里町石塚 ⑵ 現栃木県の下野国安蘇郡しもつけのくにあそが起源。地方豪族小山氏(1150年頃)の重臣の粟宮氏の一族で、「石塚館」を居館とした。  現在の地名:栃木県小山市下石塚 ⑶ 中臣鎌足(614~669年)が天智天皇より賜ったことに始まる氏「藤原」の子孫で、日向に下向したうちの一氏族。日向「石塚城」の城主。  現在の地名:宮崎県宮崎市浮田  その他武士以外でも住んでいた土地をもとにした姓も多くあると考える。現在も「石塚」の付く地名は全国に数多く存在する。

 秋田県湯沢市石塚
 秋田県秋田市楢山石塚町
 茨城県神栖市日川字石塚
 栃木県佐野市石塚町
 三重県四日市市石塚町
 新潟県妙高市石塚町
 富山県高岡市石塚
 福島県いわき市石塚町
 福島県西白河郡西郷村石塚南
 福島県西白河郡西郷村字石塚北
 福島県郡山市石塚
 福島県本宮市本宮石塚
 福井県坂井市春江町石塚
 福井県あわら市古屋石塚
 千葉県市原市石塚
 千葉県市原市八幡石塚
 埼玉県深谷市石塚
 愛知県豊橋市花田町字石塚
 愛知県稲沢市井之口石塚町
 愛知県稲沢市治郎丸石塚町
 愛知県犬山市字石塚
 愛知県豊橋市高師石塚町
 滋賀県東近江市五個荘石塚町
 京都府京都市山科区日ノ岡石塚町
 鳥取県倉吉市石塚
 宮崎県小林市北西方石塚

 昭和の30年代までは「姓」+「名前」ではなく、「住んでいる場所」+「名前」で区別することも結構あったと記憶している。姓を名乗れなかった時代の名残だと考える。

2.現在の石塚姓の分布  時代とともに広がりを見せているが、現在でも人口比率で見ると、1位 茨城県、2位 栃木県である。  また、人数が一番多いのは東京都で、およそ12,700人である。  日向の石塚は多くが鹿児島県に移動しているようである。薩摩が日向を治めた時代があったせいであろう。鹿児島県は宮崎県の約5倍の人数である。

起 源順位概数
全 国 27479,600人
茨城県常陸国石塚城 1362年418,500人
栃木県下野国石塚館 1150年頃684,400人
宮崎県日向国石塚城 1401年912180人
鹿児島県 315960人
鹿児島市 400人
薩摩川内市 200人
霧島市 100人
姶良市 60人
出水市 50人
出水郡長島町 10人

 順位は姓の多い順。全国1位は「佐藤」、「石塚」は274位。   多くの人が明治以降は移動したであろうが結構の傾向が残っている。

出典:苗字由来net (p062)
写真表示 石塚姓の起源

Ⅶ-2 軍役高帳の石塚姓  軍役高帳から石塚姓を拾ってみた。軍役高帳2番から幕末の88番まであり、麓には石塚姓が複数ある。当家を〇で、分家を△で示した。昭和の30年頃までは近所にもう一つの石塚があったのを記憶している。  薩摩藩では武士同士の石高の売買が出来たために、持高制限一杯まで石高を買い集める、さらには分家を立てて高を分配することで持高制限を実質的に回避するなどして、身分は低くとも城下士以上に豊かな者もあった。  一方で、無高や禄高の低い郷士も多かった。これらの郷士は、藩に許可されていた内職で生計を立て、中には上級郷士の小作人になる者もいた。  青字は系図の諱

1.薩州出水衆中軍役高帳2番(1612~1620年)

系図氏 名
△石塚吉兵エ尉3斗9升20
〇石塚七右衛門尉1石28助右衛門尉祐喜A17の可能性
 石塚勘解田主典7石3斗西目60
 石塚大蔵丞3石長島66
 石塚伴介2石長島67

 百石を超える者が十五家、内参百石が一家、百八十石が一家など高禄の家が多い。五十石を越える家も三十家近くある。薩州島津家の名残が強く残っている。

2.薩州出水衆中軍役高帳3番(1620~1628年)

系図氏 名
△石塚吉兵衛尉一カ所28二番の吉兵エ尉と考える
17〇石塚助右衛門尉
祐喜A17
一カ所31
 石塚;■■介一カ所西目50
 石塚余市一エ尉
 (仲介)
6斗長島56

 50石を越えるのが20家ほどに減り、内百石を僅かに超えるのが三家に減っている。軍役高帳2番にあった参百石一家、百八十石一家は名前が見当たらない。他所に移動したと思われる。

3.薩州出水衆中軍役高帳5番(1637年)

系図氏 名
17〇石塚少左エ門尉
 祐玄17
9石7丸尾勘右衛門三男
〇石塚助右エ門尉
 祐喜A17
一カ所23隠居した可能性
 石塚大蔵丞一カ所23
 石塚番左エ門尉2石3斗西目42
 石塚与市一エ尉1石4斗長島46

 ここまでは西目、長島など麓以外にも石塚姓が記載されているが、本家との関係は不明である。

4.出水衆中軍役高帳8番(1658年)

系図氏 名
17〇石塚弥市右衛門
祐類17
33石8斗10祐玄17長男
17△石塚龍兵衛
祐倚17
8石25祐玄17次男
祐類17
 石塚番左エ門尉13石西目63
 遠屋藤七左エ門尉一カ所38祐玄17の三男祐員は遠屋家相続
17 丸尾勘右衛門
平重陣
3石軸谷44祐玄17の父

5.出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)

系図氏 名
17〇石塚弥市右衛門
祐類17
50石8斗7升13祐玄17長男
17〇石塚少右衛門
祐憲B18(嫡子)
祐類17長男
17△1 石塚龍兵衛
祐倚17
10石5斗38祐玄17次男祐類17
18△1 石塚 少兵衛
祐永B17(嫡子)
18△1 石塚 彦四朗
祐里18(次男)
17 丸尾勘右衛門
平重陣
3斗6升13隠居祐玄17の父
17 丸尾四郎右衛門21石7斗19祐類17四男重宅が養子となる
18 溝口長右エ門27石4斗2升37祐類17三男親由の養子先の名

 1657年長島・野田が分離独立して独立の郷となった。大川内、軸谷、平松、米ノ津、今釜、福之江、庄、西目は八ケ郷と呼ばれ別冊になった。麓は長島、野田、八ケ郷を除いた部分となる。

6.出水麓衆中軍役高帳28番(1710年)

系図氏 名
17〇石塚少右衛門
祐憲B18
60石2斗7升祐類17長男
19〇石塚弥七兵衛
祐清C19(嫡子)
祐憲B18長男 11歳
19 石塚弥八郎
A19(次男)
祐清C19長男
17〇石塚弥市右衛門
祐類17(隠居)
18△1 石塚少兵衛
祐永B17
20石5斗30祐倚17長男
20△1 石塚少八
C20(嫡子)
龍右衛門 幼名少八
20△1 石塚三右エ門
祐清D20(次男)
18△1 石塚勘右エ門
祐里18
少兵衛弟
17△1 石塚新兵エ
祐倚17(隠居)
少兵衛の親龍兵衛か
18 田中次郎兵エ(衛)10石1斗8升22娘が祐憲B18の母
18 房村幸之助66石8斗8升5祐憲B18の長女の嫁ぎ先

 このあたりから全体的に禄高が増えている。人員の配置入れ替えなどが進み、荒れていた出水平野も落ち着いてきたのであろう。この後、禄高はほぼ一定である。

7.出水麓士族軍役高帳43番(1745年)

系図氏 名
19〇石塚弥七兵衛
 祐清C19
50石1匁23祐憲B18長男46歳
19〇石塚周助(幼名)
 祐祥19(嫡子)
周右衛門
祐清C19長男19歳
20△1 石塚龍右衛門
 祐C20(嫡子幼名)
6石61巳六月相果候除
20△1 石塚周次郎
 (嫡子)
父龍右衛門死亡
相続許可
20△2 石塚龍兵衛
祐清D20
10石2斗4升5合103祐永B17次男
△2 石塚勘左エ門
 (嫡子)
死亡除
18△3 石塚勘右エ門
祐里18
2石5斗
(無屋敷)
107祐永B17弟(分家)
△3 石塚龍之丞
 (嫡子)
祐里18長男 系図記載なし
19 丸尾弥兵衛
 (隠居)
29石3斗35弥兵衛の娘が祐祥19の母
19 森田次祐6石9斗9升61祐憲B18の長女の嫁ぎ先
19 松永孫右衛門
16石3斗1升60祐類17の長女の嫁ぎ先

 高百石が野村市右衛門、伊東四郎左衛門、税所庄右衛門、竹添弥八兵衛ほか三家。高百石が上限である。

8.出水麓士族軍役高帳49番(1766年)

系図氏 名
19〇石塚弥七兵衛
 祐清C19
50石1匁20祐憲B18長男67歳
19〇石塚周右衛門
 祐祥19(嫡子)
祐清C19長男40歳
19〇石塚助右衛門
祐徳19(上嫡子)
長男12最
20△2 石塚竜兵衛
祐清D20
34石4斗2勺87
△2 石塚勘左エ門
 (嫡子)
43番では死亡除とある
18△3 石塚龍之丞
 (幸兵衛)
3石9斗
(無屋敷)
93
△3 石塚勘右衛門
 (嫡子)
△3 石塚仁右衛門
 (次男)
19 宇佐法輪院48石3斗9升27法輪院の娘が祐德19の母

9.出水八ケ郷軍役高帳54番(1779年)

系図氏 名
 石塚十兵衛6斗3升6合西目76
 石塚直右衛門
 (養子)
 石塚甚左衛門1石5斗9合西目77

10.出水麓士族軍役高帳78番(1840年)

系図氏 名
△2石塚弥市右エ門35石2斗8升13禄高から△2勘左エ門の子孫
△2 石塚才之介
 (嫡子)
20△3 石塚助右衛門6石
屋敷が与えられた
32禄高から△3龍之丞の子孫
△3 石塚龍太郎
(嫡子)
△3 石塚龍助
(助右衛弟)
19〇石塚仁右衛門
祐富20
90石5升6合58周右衛門と判断祐徳19長男47歳
謄本〇石塚佳兵衛21
 (嫡子)
祐富20長男
〇石塚為兵衛
 (次男)
系図記載なし

 系図の最後の記載は周右衛門(祐富20)は寛政5年(1793)3月22日生。軍役高帳78番は1840年作製なので、祐富は47歳となる。従って「仁右衛門」は「周右衛門」の間違いと考える。

12.出水麓士族軍役高帳88番(1867~1870年)

系図氏 名
△2 石塚;周右エ門44石8斗7升14禄高から△2 才之介の子孫
△2 石塚泰介
 (嫡子)
△2 石塚斉之介
 (五男)
△4 石塚藤四郎5石
(無屋敷)
14分家 周右エ門四男
20△3 石塚龍右エ門5石1斗5升38
△3 石塚周次郎
 (嫡子)
△3 石塚伊左衛門
 (次男)
△3 石塚兵袈裟
 (三男)
△3 石塚介袈裟
 (四男)
謄本〇石塚佳兵衛2149石8斗66
謄本〇石塚十郎
祐賢21(嫡子)
戸籍謄本では祐賢26歳
謄本〇石塚萬之介
 (次男)
祐富20長男10歳
△5 石塚為兵エ
 (佳兵衛21弟)
14石8斗
(無屋敷)
66
△5 石塚孫八郎
 (嫡子)

 明治2年(1869)年に郷士の禄高は100石に制限され、同年10月には50石に制限された。超えた者は郷内で売却するように命じられた。そのことが良く分かる資料である。(薩摩藩では石高の売買は許可されていた。)


 軍役高帳の作製年は単年記載(例:1766年)と複数年記載(例:1867~1870年)がある。複数年記載の場合は数年間にわたり加筆訂正を加えながら使用したと考えられる。したがって最後の年を作製年とするのが妥当であろう。  薩州出水衆中軍役高帳2番(1620年)では麓の外城士は全員高持士であるが、薩州出水衆中軍役高帳3番(1620~1628年)では一ケ持士が88人となっている。他所から移動した者が多かったのであろう。

軍役高帳の石塚姓 ツリー系図  江戸時代の系図にある諱は軍役高帳ですべて照合できて、下図に示すように史実と一致している。 写真表示  軍役高帳88番で「佳兵衛21嫡子十郎」となっているが戸籍謄本では「祐賢21」である。幼名が「十郎」だったのであろう。 佳兵衛21の次男萬之助21については戸籍謄本に、「鹿児島県出水郡出水村武本石塚祐成B*死亡後相続人となる。」(39ページ写真21)とある。石塚祐成B*佳兵衛21の弟為兵エ*の嫡子孫八郎*のことではないかと考える。 参考丸尾家について  丸尾家は麓に二家、軸谷に一家ある。軍役高帳の2番(1612~1620年)から最後の88番(1867~1870年)まで存続している。ただし、20番からは軸谷は独立した郷になったので、出水八ケ郷軍役高帳(1779年)でしか確認できないが、それまでは存続しているのが確認できる。この三家は親戚と思われる。3番によると丸尾家は薩州島津家の家臣で出水麓に移動している。  出水石塚2代の祐玄17丸尾勘右衛門(麓衆中)の三男で猶子。出水石塚3代祐類17の四男重宅18丸尾四郎右衛門(麓衆中)の養子。また、出水石塚六代祐祥19の母は丸尾弥兵衛の娘である。  軸谷は東出水小学校から大口方面に500m程の場所で、麓に最も近い郷である。

Ⅶ-3 系図の書かれた時期

1.系図から祖先をたどる  系図に従って作製。番号は直系ではないので便宜上付けた。


備考・資料等
鎌足01藤原姓
不比等01
武智麻呂01
乙麻呂01
是公01
雄友01
弟河02
高扶02
清夏02
維畿02
1為憲02武家としては工藤氏が祖工藤姓
2時理02
3維景02
4維職02伊東姓
5家継02
6維継*系図記載なし
7祐継A03養子 実は実子
8祐経03
9祐時03伊東姓
10祐景05祐時03七男門川姓
11康祐05祐景05長男日知屋姓
12豊夜叉御前06康祐05の女 祐康06の母
13祐安B06新編生目郷土史 祐康06姓不明


備考・資料等
14祐能07新編生目郷土史
15祐武B12新編生目郷土史石塚姓
16祐孝B13新編生目郷土史
17祐武C14(祐衛)新編生目郷土史
18祐有C16系図のみ資料なし
19祐恭16系図のみ資料なし
 紙劣化でB4の2/3程不明(3代程度と推定)
23祐喜A17軍役高帳 3番石塚姓
24祐玄17軍役高帳 5番 猶子
25祐類17軍役高帳20番 系図筆写
26祐憲B18軍役高帳20番
27祐清C19軍役高帳43番
28祐祥19軍役高帳43番
29祐德19軍役高帳49番
30祐富20軍役高帳78番
31佳兵衛21軍役高帳88番 戸籍謄本
32祐賢21戸籍謄本
33萬之助21戸籍謄本 家督返還
34實人21戸籍謄本
3523戸籍謄本
3625戸籍謄本
37戸籍謄本
38戸籍謄本

 不明部分を3代として整理番号を振った。青字は出水淨圓寺に葬る。  日向を出から出水までの足跡が不明なのは残念であるが、それ以外は史実と一致している。

写真表示

2.系図の書かれた時期  この系図の書き方は次の①~④に分けられる。(右図参照) 鎌足01から源頼朝に日向国地頭を命ぜられた祐時03まで  この部分は簡単に、主に当主だけ書かれている。 祐時03の子らが日向に下向した後  祐時03の兄弟特に七男門川祐景05の子孫からは詳しく書かれている。  当然石塚は詳しく書かれている。  ただし伊東本家については祐時03から祐立07(祐堯07の前の代)までは当主だけ記載してある。この時代は本家と日向の庶流は対立していたと考える。祐時03畠山直顕(日向守護)に属して日向国内の南朝方と戦った。基本的には日向の庶流は南朝方である。 日向の庶流をまとめた伊東本家の祐堯07から義祐11まで  伊東本家も石塚とかかわりのあった期間なので詳しく書かれている。  祐時03から祐堯07までは簡単に、主に当主だけ書かれている。  「伊東くずれ」の後は書かれていない。 江戸時代  一部欠損しているが、詳しく書かれている。  以上のことから系図の書かれた時代は②の祐景05が下向した1252年以降と考える。江時末期の1867頃まで書かれているのでおよそ600年間に亘って加筆されたものと推測する。①の部分は伝聞などによるものであろう。また、伊東本家も石塚と関係のあった(仕えた)時期は詳しく書かれている。

Ⅶ-4 出水石塚世代

1.出水在住当主一覧  下表は系図と戸籍謄本を基に出水在住を並べたものである。(氏名の青字は淨圓寺に葬る)

世代
1
世代
2
氏 名生誕 死没
資料・備考
1助右衛門尉
(祐喜A17)
軍役高帳 3番(1620)
2少左衛門尉
(祐玄17)
軍役高帳 5番(1637)
猶子
3弥市右エ門尉
(祐類17)
軍役高帳20番(1686~1689)
軍役高帳28番(1710)系図筆写
4少右衛門尉
(祐憲B18)
軍役高帳20番(1686~1689)
軍役高帳28番(1710)
51弥七兵衛
(祐清C19)
元禄12年(1699)生
安永8年(1779)12月26日没
(81歳)
軍役高帳43番(1686~1689)
軍役高帳49番(1766)
62周右衛門
(祐祥19)
享保11年(1726)生
寛政10年(1798)7月18日没
(84歳)
軍役高帳43番(1686~1689)
軍役高帳49番(1766)
73助左衛門
(祐德19)
寳暦4年(1754)10月16日生
文政8年(1825)10月26日没
(72歳)
軍役高帳49番(1766)
84弥市右エ門
(祐富20)
寛政5年(1793)3月22日生
文政7年(1824)5月家督相続
没不明
軍役高帳78番(1840)
  95佳兵衛21不明
軍役高帳88番(1867~1870)
106祐賢21弘化元年(1844) 8月15日生
大正15年(1926) 2月 5日没
軍役高帳88番(1867~1870)
117萬之助21萬延元年(1860)生
西南の役後に家督返還
戸籍謄本
128實人21明治17年(1884) 8月20日生
昭和22年(1949) 5月 7日没
戸籍謄本
13923大正13年(1924) 1月21日生
平成28年(2016) 7月16日没
戸籍謄本
1410昭和24年(1949) 4月15日生
1511
1612

萬之助21については西南の役のときに祐賢21から家督を相続しているが、役後に返還している。


2.猶子ゆうし祐玄の血縁祐玄17丸尾勘右衛門尉平陣の三男で猶子であったが、祐喜A17の家督を相続している。猶子は家督相続を前提としないで、親子関係を結び、猶父が後見人となる。  血縁については調べるのは難しいのであるが、血縁がある可能性としては次のことが考えられる

肱黒市右衛門尉の妻となった女子の他にもう一人女子がいて祐玄17を婿養子とした。この場合系図には妻は記載されない。系図の記載は祐喜A17の子は女子一人で、この女子は肱黒市右衛門尉の妻となっている。もう一人女子がいたかどうかは系図に記載がないがその可能性は高い。
親戚から養女を迎え、祐玄17を婿養子とした。
前の代で丸尾家に嫁いだ女子がいる。

 写真17に「祐玄なる者は丸尾勘右衛門尉平重陣の三男なり祐喜男子無しによりこれを請けて猶子となし石塚の家を相続す。」とある。この書き方は①の可能性を示しているのではないか。

3.江戸時代の武家の養子  昔は家名を継がせる目的で養子縁組がなされる例が多くあり、血縁がない場合もあった。家名が断絶すると家族や使用人などにも大きな影響を与える。  江戸時代将軍家を除けば、武家の養子は同姓優先ではあったが、異姓でも問題ではなかった。50歳過ぎても嫡子が無い場合は養子縁組をしていないと万一急死した場合は断絶となった時代もあった。  また、戦国時代や江戸時代では、誰の子かといった事よりも、誰の子として認められているのかという事のほうが重要であった。  軍役高帳にも養子縁組は散見され、「継目之願申上、巳月御免被仰付候」(許可の意味)などの記録がある。また、本家からも数人他家の養子となっている。

引用:武家の養子と身分 世川祐多 (p063)

4.世代について  石塚初代祐武B12から数えて4代目の祐有C16のときに分家になっている。ここを起点して世代を数えるべきであるが、途中3代ほど不明なので数えることができない。現在判明している出水初代は祐喜A17であるが、その前の代が出水に居たかどうかは調査不能である。  ①祐有C16から世代を数えることができない。  ②祐喜A17が出水初代かどうか不明。  出水初代祐喜A17の禄高は一ヶ所(禄高無し)、3代あとの祐憲B18のありたから50石程となり安定している。このことが理由になるかわからないが、祐喜A17の4代あとの禄高の安定した祐清C19のときに菩提寺が出水淨圓寺になりここに葬り始めた。日向にいたころは日蓮宗であったと考えるが、当時出水に日蓮宗のお寺があったか不明である。もしかしたら神道だったかもしれない。  ③出水淨圓寺に葬り始めた祐清C19からは正確に世代が比定できる。(前ページの表の世代2)  以上の考察から③の世代の数え方しか正確でないといえる。  出水淨圓寺は墓地が無くなり現在は隣接する出水共同納骨堂組合に歴代を葬っている。また、10代石塚26が鹿児島市在住なので、葬式等は彌照山廣照寺(浄土宗)にお願いしている。  室町時代以降、惣領家の力が強まり、祖先由来の名字を子孫に伝える傾向が強まった。同じ名字をもつもの同士で団結を固めた一方、一族の団結を乱す者は名字が剥奪されるという制裁を受けた。分家であっても一族ということで石塚を名乗ったのであろう。

Ⅶ-5 出水での禄高と薩摩藩の身分制度

1.禄高  軍役高帳で比定できたものを記載した。

世代氏 名軍役高帳
記 載 年
禄  高
1 助右衛門尉
(祐喜A17)
 3番(31)
1620年
一ヶ所(禄高無し)
2 少左衛門尉
(祐玄17)
 5番( 7)
1637年
9石
3 弥市右エ門尉
(祐類17)
 8番( 7)
1658年
33石
20番(13)
1686~1689年
50石8斗7升
4 少右衛門尉
(祐憲B18)
28番(11)
1710年
60石2斗7升
5 弥七兵衛
(祐清C19)
43番(23)
1745年
50石1勺
49番(20)
1766年
50石壱勺
6 周右衛門
(祐祥19)
43番(23)
1745年
50石1勺 
49番(20)
1766年
50石1勺
7 助左衛門
(祐德19)
49番(20)
1745年
50石1勺
8 助右衛門
(祐富20)
78番(58)
1860年
90石5升6合
9 佳兵衛2188番(66)
1867~1870年
49石8斗

 1620年の禄高0の状態から1860年に90石まで増加している。明治2年(1869)年10月外城の郷士の禄高は50石に制限されて佳兵衛21の代は49石88升4合に減らされている。 参考 一石は人ひとりが一年間に消費する米の総量。一石(180リットル)=10斗=100升=2.5俵 参考 令和4年の米価は13,961円/玄米60kgである。一石は150kgなので34,903円となり、50石だと175万円にしかならない。当時と比べ米の生産量が飛躍的に伸びたのでこれで比較することはできない。一石は当時1両ほどであった。1両は職人の賃金で比較すると30万円ほどとなる。そうすると50石は50両×30万円で1,500万円となる。


2.薩摩藩の身分制度

・ 藩主
写真表示 ・ 御一門ごいちもん
【ごいちもん】藩主の身内や分家の中で家格の高い家(加治木、垂水、重富、今和泉の四家)
写真表示 ・ 一所持いっしょもち
島津の分家や重臣で所領を持つ家(島津本家の三男以下の創立家、または格別由緒家)
写真表示 ・ 一所持格 ––いっしょもちかく
島津の分家や重臣で所領を持つ家
写真表示 ・ 寄合よりあい
重臣
写真表示 ・ 寄合並よりあいなみ
重臣
写真表示 ・ 無格むかく
中級藩士
写真表示 ・ 小番こばん
中級藩士。徳川幕府の旗本に相当。
写真表示 ・ 新番しんばん
下級藩士
写真表示 ・ 小姓与こしょうぐみ
下級藩士(西郷家や大久保家など。その多くが50石以下の禄高)
写真表示 ・ 与力よりき
武士もしくは武士に準ずる待遇を受けた家

3.外城制度・門割制度かどわりせいど  外城制度は鹿児島城下のほかに113の外城(郷)を設け、郷が数村に、村が数十門に分けられた。地頭仮屋を中心に半農半士の武士(外城士・郷士)を集団居住(麓集落)、土着させ、地頭がこれを統轄して、軍事・行政を行う制度であった。  麓に住む武士(郷士)は、平時は農耕によって自活し、戦いが起きた時には、地頭の下に動員される仕組みになっていた。  藩直轄の領地を「蔵入地」、城下士・郷士の領地を「給地」と言った。「蔵入地」と「給地」は二〇~四〇石単位の複数の「門地」からなる。「門地」には耕作担当が指定され、2~3家族で耕作し、年貢を納めた。郷士も農民同様に年貢地を耕作して農業をすることが多かった。 「給地」には若干の「浮面地」が含まれ、「浮面地」は郷士やその使用人を使って耕作した。 「抱地かけち」(持留地)は郷士が自力で開墾した土地で、屋敷を与えられた永代使用人により小作された。  「抱地」は門割のかどわり対象から除かれ、永久に使用収益権を認められた。

参考:秀村選三著『幕末期薩摩藩の農業と社会 - J-Stage (p064)
参考:大隅町誌(改訂版)第六章門割制度 (p065)

 地頭は鹿児島城下に居住していて、実質的は上級郷士(郷士年寄・組頭・横目の麓三役)が担った。  郷士のなかにも以下の家格差があった。

写真表示 ・ 高持士
禄高を持つ郷士
写真表示 ・ 一ケ持士
屋敷だけを持つ郷士(軍役高帳は一ケ所とある)
写真表示 ・ 無屋敷士
屋敷なしの無高郷士

引用:薩摩藩島津家 家臣団の階級(身分)と禄高 (p066)  出水麓は薩摩藩最大の外城であり、軍役高帳20番を見ると一ケ持士137家部、高持士406家部(1689年)となっている。高持士の禄高で50石以上がいくつかある。  高持士の禄高は、鶴丸城下(鹿児島市)であれば下級藩士の新番か小姓与の禄高であるが、軍役高帳を見ると一ケ持士の禄高はなく、高持士も碌高が低いものが多い。石塚家も最初は禄高が低い。

西暦年高持士一ケ持士無屋敷士
  1686  400  146   3
  1687  397  146   4
  1688  400  143   4
  1689  406  137   5
引用:出水麓士族軍役高帳20番(1686~1689年)

 後に禄高が五十~九拾石ほどになっている。1599年から約30年続いた出水麓の整備も終わり、秀吉の直轄領時代を経て荒れていた出水平野も整備・開拓が進み収穫量が増えたことによる考えられる

4.兵農分離  兵農分離は、戦国時代から江戸時代にかけて推し進められた武士階級とそれ以外の階級との身分的分離政策。  戦国時代は兵として武士以外にも農民を動員した。米が軍事力の元になるので、米作り、農耕の季節には農民たちを動員できない。農閑期が来たとき、下級の兵として動員した。  農民がいなくなると戦に勝っても米作りができないので戦いにおいてあまり人を殺さない。大将や主だった武士が降伏するとそれで終わりとなった。負けた方は使える相手が変わるだけである。将棋の世界と同じで取った駒は活用できるのである。  兵農分離以前は武士も農民も僧侶も町人もあらゆる層が自衛の為に武装し、個々で鍛錬もしていた。農民が武装出来なくなったのは、豊臣秀吉の刀狩りからである。  江戸時代になっても、土佐や九州地方、東北地方では、兵農分離が進まず、半農半士制が多く残り続けた。外城士(郷士)が農業にも力を入れていたのは自然なことであったと考える。

5.地租改正  明治6(1873)年の地租改正では、門地は占有耕作していた農民に、土地私有の実質を持つ郷士の土地は郷士に地券(明治政府が土地所有者に交付した証券)を交付した。郷士の給地の所有権は認められなかった。  外城の郷士は城下の武士の下位におかれ、両者の身分格差は区別されていたが、西南戦争の後、城下の武士は没落し、郷士は領地を持っていたので、地主として明治・大正の鹿児島の地方政治を牛耳ることになった。  石塚家にも地券が100枚程度残っていた。これらの土地は大分部戦後の農地改革で政府に買い上げられた。  「土地私有の実質を持つ郷士の土地」は浮面地と抱地だけだったのかは不明。

6.農地改革  農地改革は昭和22(1947)年から昭和25(1950)年までに行われた農地の買収・譲渡。以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。 ・ 不在地主の小作地の全て ・ 在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地 ・ 所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等  最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的に無料で譲渡されたに等しかった。

米俵1表(60㎏)の値段の推移(単位円)
~急激なインフレーション
昭和17(1942)年17.560
昭和20(1945)年 60.00 規準ポツダム宣言
受諾・終戦
昭和22(1947)年 700.00 11.7倍 日本国憲法施行
昭和27(1952)年 3,000.00 50.0倍
昭和32(1957)年 3,850.00 64.2倍
参考:農地改革(Wikipedia) p067)
参考:米価の変遷(Wikipedia) (p068)

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