Ⅶ-6 家紋
1.日本刀柄頭と切り刃 石塚家は伊東氏から分かれているが、出水石塚は薩摩藩士となっている。家紋は出水の屋敷内のイチョウの古木にちなんで周りを4枚のイチョウの葉が囲んでいる。 柄頭中央の黒色の家紋は「平安初期藤原南家紋」(木瓜紋)である。「工藤姓家紋」「日向伊東姓家紋」は庵木瓜で、木瓜紋を庵が囲んでいる。 また、柄頭の真ん中の木瓜紋は祖先が藤原南家であることを示したと考える。それまでは木瓜紋を使っていたと考える。
明治(1876)9年皇族、政府の役人、軍人、警察官以外の者の帯刀は禁止された。そして、第二次世界大戦後の昭和21(1946)年にアメリカの占領軍による「銃砲等所持禁止令」が発令されると、刀の所持が法律により禁じられるようにった。それまでは刀の所持はできた。写真の柄頭や切羽も武家屋敷門と同じ時期に作られたのであろう。
2.武家門 現在、本格的両袖付き武家門が多く残っているが、これはほとんど江戸時代末期から明治初期のものと言われている。1858年出水麓から出火した火災は106軒が被災した。延焼した理由の一つとして、敷地は現在はほとんどが生垣に囲まれているが、以前は板塀であったので火が燃え移ったと伝わっている。
江戸時代初期の麓は木柱や石柱の門が多かった。現在もいくつか残っている。現在大半を占める袖付き瓦葺の門は、1858年の大火前にはどのような様子だったのは分からないが、禄高により許可が必要であったと思われる。また、広範囲に延焼したことを考えると茅葺の門もあったかもしれない。 明治初期には自由に作れるようになったので、柱の門から現在の瓦葺の門に作り直したものもあると考える。
石塚家の門(武家屋敷門)には大きな家紋が彫り込んである。四枚のイチョウの葉で囲まれた部分は「丸に十ノ字」のアレンジと思える。このころ(江戸時代)に島津の紋を勝手に使うことはできない。島津のご拝領紋という話があるが、外城士は身分が低く、よほどのことがないと主君と話もできなかったはずで、あり得ないことである。 明治政府は明治4(1871)年に藩を廃止し国直轄の県とした(廃藩置県)。2年前の版籍奉還によって知藩事とされていた大名には藩収入の一割が約束され、東京居住が強制された。それまでは藩主から預かった屋敷の土地は勝手に売買できなかった。江戸初期に与えられた屋敷の土地は、公開武家屋敷の税所邸や竹添邸はさほど広くない。石塚家はそれと同じかそれ以下の広さであっただろうが、現在その二倍はある。イチョウの大木まで広くなったのは廃藩置県、地租改正以降と考える。そうすれば新しい家紋はそのころ作られたのではないだろうか。また、家紋の入った武家門も作られたのはそれ以降で、佳兵衛21の代ではないかと考える。これに関しては、諏訪神社の宮司黒木氏の話によると、昔はイチョウの木は黒木氏の土地であったということである。 注 薩摩藩では石高の売買は許可されていたが、屋敷の土地は売買できなかったと考える。石高の売買許可は資料があるが、土地の売買ができたという明確な資料は見当たらない。
隣の諏訪神社から見たイチョウの古木。直径約3メートル
お召列車
梅小路蒸気機関車館
昭和天皇の戦後巡幸の際、この木の実が献上された。
昭和24(1949)年6月の時か昭和33(1958)年4月の時か不明。
昭和33年4月のときは出水駅近くの線路沿いに並び、日の丸を振ってお召列車を見送った。陛下はデッキに立って手を振ってくださったのを鮮明に記憶している。小学校三年生の時である。
Ⅶ-7 地図 宮崎県の城郭
1.宮崎県の城郭
参考 伊東四十八城 日向伊東氏の最盛期には支配域内に48の外城及び砦が存在した。伊東四十八城と言われている。 伊東本家の城は都於郡城で、現在の宮崎県西都市にあった。秀吉の「九州平定」の後は飫肥城となり、幕末まで安定していた。 江戸幕府の一国一城令(1615年)により飫肥城、高鍋城、佐土原城以外は廃城となる。 江戸時代日向国は小藩が分立し、飫肥藩(伊東氏)、高鍋藩(秋月氏)、佐土原藩(島津氏)、延岡藩(内藤氏)があった。このうち延岡藩は新城を慶長8年(1603年)に完成させた。
2.日向国の郡郷
郡 | 郷 |
臼杵 | 高日、速日、高千穂、都農郷、高鍋 (高鍋町・新富町・西米良村・木城町・川南町・都農町) |
児湯 | 檍原、喜理島、橘小戸、佐土原、来理島(高鍋町・新富町・西米良村・木城町・川南町・都農町) |
那河 | 中川、吉田、明、芹本、吾平(宮崎市・日南市・串間市の全域) |
宮崎 | 日殿、太宮、松原、秋山、谷、三浦 |
諸縣 | 縣、 高屋、折本、玉屋、坂本、枝(宮崎市の一部・都城市・小林市・えびの市・北諸県郡・西諸県郡の全域・東諸県郡の大部分・鹿児島県志布志市・曽於郡大崎町の全域・鹿児島県曽於市の一部) |
Ⅶ-8 地図 薩摩の街道筋・外城配置
1. 江戸時代の薩摩の街道筋
・出水筋–––– | 鹿児島-伊集院-串木野-平佐-高城-阿久根-出水【野間関】 |
・大口筋–––– | 鹿児島-白銀坂-蒲生-伊牟田-鶴田-曽木-羽月-大口-山野【小川内関】 |
・加久藤筋–– | 鹿児島-白銀坂-加治木-横川-栗野-吉松-【榎田関】(えびの市)-加久藤(えびの市) -加久藤越え-肥後人吉(熊本県人吉市) |
・野尻筋–––– | 加久藤-飯野(宮崎県)-小林(宮崎県)-野尻【紙屋関】(宮崎県小林市)-綾(現東諸県郡) |
・高岡筋–––– | 鹿児島-白銀坂-加治木-国分-財部-都城-高城【去川関】(宮崎県児湯郡)-高岡(宮崎市高岡町) |
・志布志筋–– | 鹿鹿児島-桜島-垂水-鹿屋-串良-大崎-志布志【夏井関】 |
宮城県えびの市と熊本県人吉市の間の加久藤峠、大口市(現伊佐市)と人吉市の間の久七峠は難所である。 薩摩藩は、江戸初期は参勤交代に海路を使っていた。船団を率いて鹿児島を発ち、瀬戸内海を抜け、近畿まで行き、その先は陸路だった。しかし、海路は天候不順などによって日程に遅延が生じることがあり、中止となった。 斉彬や篤姫(戒名天璋院)は出水筋を通ったことが分かっている。 出水筋 川内~阿久根の海岸 肥薩おれんじ鉄道(旧JR鹿児島本線)と国道3号線が平行して通っている美しい海岸線。
出水筋 野間の関跡
加紫久利神社
野間の関跡の近くの神社で、創始年代は不詳であるが、社伝によれば遠く神代ともいわれている。 加紫久利山を神体とする山岳信仰から始まった神社で、加紫久利山は、水俣市と出水市の県境にある矢筈岳の古い呼び名であるとされる。 枚聞神社(鹿児島県指宿市開聞十町)が薩摩国一の宮、加紫久利神社が薩摩国二の宮である。 西南戦争のときの官軍の艦砲射撃により全焼し、社殿はおろか歴代伝わった宝物すら失った。1880年に社殿は再興された。 鹿児島県出水市下鯖町1272
注 平安時代から鎌倉時代初期にかけて、由緒の深い神社、信仰の篤い神社の序列が生じ、その最上位にあるものが一の宮とされた。大隅国の一の宮は鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町)、二の宮は蛭児神社(霧島市隼人町)である。 白銀坂 白銀坂の全長は約4kmであったが、現在ではそのうちの約2.7kmが残っている、坂の高低差は300m以上。鹿児島県姶良市脇元から鹿児島県鹿児島市牟礼岡まで伸びる石畳の坂道。国の史跡
球磨街道加久藤峠
↑加久藤峠は榎田関から人吉への球磨街道の難所
国道221号の加久藤峠のループ橋は東洋一(1972年完成、標高差340mのループ)であったが、1995年九州自動車道の加久藤トンネルができてから交通量は減った。
地方街道 掛橋坂(鹿児島県姶良市蒲生町北))は祁答院(薩摩川内市祁答院町)と蒲生郷(姶良市)を結ぶ地方海道の一部で、平成23年(2011)年に山中に石畳が発見されるまで忘れられていた。現在駐車場なども整理されていて簡単に行けるようになった。 出水石塚家の前の道路も地方街道の一つ菱刈(現伊佐市)街道である。 吉田と蒲生を結ぶ白銀坂を通らない地方街道もあったと思うがその記録がない。
2. 外城配置 出水の十ケ外城
薩摩藩独自の外城制度は、藩内各地の城や砦に半農半士の武士の集団が駐屯・居住し、有事に領主・地頭の命令で挙兵する役割を担った。戦国末期に、区域内に分散していた形態から、区域内の中心的城の山麓の麓集落へ集住する形態へ移行した。その中で出水は北の守りの要でもあり最大級の外城であった。
ひとつの外城は数ヶ村を区域とし、中心村の城や砦や農山漁村主要部・交通の要衝に設置された地頭仮屋を中心として麓集落が広がり、武家屋敷が存在した。この外城の屋敷に住む武士を、鹿児島城下に住む城下士に対し外城士と呼んだ。外城の行政は地頭の居館である地頭仮屋で行われたが、地頭は寛永(1624~1644年)以降は鹿児島城下に定住するようになり次第に軍事的意義も薄れていった。やがて上級郷士(麓三役)が実質的支配にあたるようになった。 江戸時代の人口比の全国平均は、武士は約7%、農民は85%であったが、薩摩藩は武士の人口比は約26%であった。多くの外城士(郷士)が農業半農半士であったと考えられる。武士の多さと、生産性の低い南九州の土地で武士を養う困難さが理由の一つであろう。 外城の数は1744年以降、地頭所92、私領21、計113になった。出水では出水、高尾野、野田、阿久根(西目)、長島が地頭屋敷のおかれた外城である。 1784年に「郷」と改称したため、外城制度を郷士制度、外城士を郷士と呼ぶようになった。郷士戸数などによって大郷・中郷・小郷及び私領地に区分された。出水の郷は野田と長島が独立して出水郷と八ケ郷となった。 薩摩藩113外城配置図 現在の宮崎県えびの市、飯野市、加久藤、小林市、都城市、東諸県郡綾町、宮崎市高岡なども薩摩藩であった。
参考:街道からみた薩摩藩麓の屋敷構えと武家住宅に関する研究(鹿児島大学工学部研究報告) |
上図は黎明館所蔵の地図が元になっていると思われる。20阿久根、21野田、22高尾野、23出水、24長島は地頭屋敷が置かれていた。
Ⅶ-9 出水兵児修養掟 出水兵児修養掟は大正時代に青少年をたくましく育てるために作られた。 大正6(1917)年山田昌巌翁250年祭のときに、朱子学の室鳩巣(1658~1734年)の著書「明君家訓(1715年)」を引用し、「修養」という当時の流行語をタイトルにつけて溝口武夫氏が成文化したものであることが推測される。 大正8年に設立された旧制出水中学校の依頼により溝口武夫氏が出水兵児修養掟の成文を揮毫している。 注 溝口武夫氏:薩摩日置流腰矢(範士)、弟子に伊藤信夫氏(元鹿児島県知事伊藤雄一郎氏の祖父) 出典:▶出水兵児修養掟の作者-郷土研究会 (p069)
出水兵児修養掟 石塚実人(出水石塚八代) 書
士ハ節義を嗜み申すべく候 節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、 心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂らはず下を侮どらず人の患難を見捨てず、 己が約諾を違へず、甲斐かいしく頼母しく、 苟且にも下様の賎しき物語り悪口など話の端にも出さず、 譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己為すまじき事をせず、 死すべき場を一足も引かず、 其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、 物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也 |
一 嘘を言わない 二 利己主義にならない 三 礼儀作法を正す 四 上の者にへつらわず、下の者を侮らない 五 人の悪口を言わない
emsp; 六 約束を破らない 七 人の窮地を見捨てない 八 してはならないことをしない 九 死すべき場では一歩も引かない 十 義理を重んじる
おわりに
1. 編集後記 系図の存在は昔から知っていたが、内容については調べたことがなかった。無駄に終わる覚悟で一念発起して解読してみたところ、史実と一致していることや祖先が日向から出水に来たこと、出水で苦労したことなどが分かり興味深く作業がすすめられた。 各地での教育委員会の発掘調査や、歴史資料館などの設立、古文書の解読などに加えて歴史愛好家による研究などが進んでいて、それらの多くの資料がインターネット上で公開されており大変参考になった。 出水だけでなく宮崎市の石塚城跡や妙円寺石塔群、熊本県田原坂にも出掛けた。現地に行くと新しい発見があり、貴重な資料も集めることができた。 これらの情報を元にほとんどすべての名前を比定できた。情報化社会の今だからできた作業であったと考える。 特筆すべきは、妙円寺跡石塔群が昭和11(1936)年発掘され、現在の配置に移設されたことである。この中に豊夜叉御前06の子孫である石塚城主祐武B12(石塚肥後守孫次郎)の墓が発見され、伊東祐景05の日向下向から祐武B12まで流れが比定できた。 もう一つは出水市教育委員会・郷土史研究委員会により江戸時代の軍役高帳が解読され、さらにそれを冊子にして頂いたことである。これと系図を比較することで江戸時代を比定できた。 2022年から約1,300年前まで、平均でおよそ26年ごとに代が変わっていることになる。 53ページに江戸時代の武家の養子について述べたが、鎌倉時代から多くの養子縁組が行われている。そのとき名前が変わるし、受領地により姓が変わる。また、大きな出来事があると改名する場合もある。そのような経緯があるので親子関係で諸説生じることになるのではないだろうか。 10ページの祐時03の男子が十一人というのは多すぎるように思う。祐光A05と祐光B*が同一人物という説を取れば伊東本家は祐親03の子孫で、日向庶流は祐時03の子孫となる。伊東本家と庶流の関係が上手く行かなかったことも納得できるのだが。 他にも福島県郡山市には、祐時03の弟奥州鞭指庄松山(福島県郡山市)松山領主伊東(安積)祐長*は、兄の頼みに応じて、子を日向国の国富に与えられていた飛び地に派遣したとの言い伝えが残されてる。全員が祐時03の子ではなく庶家を下向させたと考える。 紙劣化で2~3代不明なのが惜しまれる。また、日向を離れる直前の祐有C16と祐恭16(30ページ)の二代について資料が無く史実との比較ができなかった。祐有C16は次男と考えられる。石塚家は昔家老職であったことがあるとの伝承があるが、この二代のことと考えられる。あるいは祐武B12以降が伊東本家の家老だったかもしれない。
2. お世話になった組織等 〇鹿児島県出水麓歴史館 職員の方々には大変お世話になった。資料などとともに丁寧に質問に答えて頂いた。 〇鹿児島県出水麓街なみ保存会 河添理事長 河添理事長には「出水麓のつわぶきのあしあと」の資料を紹介して頂き、祖先の名前の刻まれた石塔なども発見できた。 〇宮崎市生目地区史跡整備・保存事業プロジェクト 生目地区振興会文化部会部 会長 児玉浩志氏 児玉氏には大変お世話になり、高価な「新編生目郷土史」までお贈りいただいた。
2023年3月